FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

あの桜以上に

あの桜以上に美しい桜を、俺は見たことがない

妻と子供をつれて近所の公園に来た俺は、白い粉を塗したようなソメイヨシノの花が作る屋根の下で、その隙間から見える青空を眺めている。

県内有数の桜の名所であるこの公園は観桜の季節になると数多の屋台が建ち並び、渓谷を流れる濁流のような観光客が、その隙間を止め処なく流れ続けている。
立ち止まる事すら許されず、流れに任せて転がり続ける石のように河口へと押し出される。しかしたどり着いたのは砂浜ではなく、新緑が敷き詰められた公園の端の広場だった。数十組のグループが広場を囲うように植えられた桜の下にレジャーシートを敷き、屋台で買った食べ物を広げている。子供を抱いたまま歩き続けた事による発熱と、春の陽気をまどろっこしいと跳ね除ける場違いに強気な太陽からの射光によって、俺のこめかみからは不快な汗の粒が滴り落ちる。誰かが飲むビールのカップに羨ましさを感じながら、空いている桜の木の下にレジャーシートを広げて腰を下ろした。

あの桜以上に美しい桜を、俺は見たことがない。

ソメイヨシノと青空のコントラストを見上げながらも、別段心が動かされない自分にほんの少し落胆した。一度あの桜の美しさを見てしまったら、もう二度と桜の美しさに感動する事は出来ないのかもしれない。美しいものを美しいと、美味しいものを美味しいと、幸せを幸せと感じられない事は、恐らく何よりも不幸せな事だと思う。感動にもドラックのような中毒性があって、際限なく今以上を常に望んでしまうものなのだとしたら、あの最上に美しい桜を見られた事は果たして喜ぶべきことなのだろうか。

俺は目の前の桜から空へと視線を移し、記憶の中のあの桜を咲かせようとする。

花見に行こう、仕事から帰った父がそう言って、小学生だった僕と妹は首を傾げる。近所の城跡に桜が咲いている事は知っていたが、桜を見に行ってどうするというのだろうか。それに外は既に日が傾きかけている。真っ暗になってしまえば桜の花など見えるはずもないし、僕はそれよりも夜7時からやるアニメの方が気になっていた。子供の僕にとって一日は日の出と共に始まり日の入りと共に終わるもので、世の中の全てがそうであると信じていた。日が落ちてからの外の世界は闇の一色で、夜に鳴く虫以外は全ての活動が休止しているものだと考えていた。
僕は怪訝な顔で母の表情を伺う。母が微笑みながら頷いたため、父がおかしな事を言っているわけではないと何となく理解できた。
僕たち4人は父の運転で近所の城跡へと向かう。
そこで僕は、この世界の別の一面を見た気がした。日が落ちても眠らない、空から落ちてくる夜を両手で受け止め押し戻すような、そんな力強い光と、声と、人の息遣いを見た気がした。
普段車を停める駐車場には提灯が吊り下げられ、舗道によって並んだそれはファンタジーの世界に出てくる道しるべの明かりのように坂の上まで続いていた。
道の両側には桜。赤みを帯びたちょうちんの明かりに彩られ、火の粉が空に浮いているように見える。風で花びらが揺れるたびに陰影によって火の粉もまた揺らぎ、一瞬一瞬が別々の絵画のように様相を変えていく。
妖精に道案内されるかのような気分で僕は坂を上った。後を追う両親や妹を待つのももどかしく、僕は坂道を駆け上った。
坂道は広場まで続いている。
そこに辿り着いた時、僕は全力で地面をけっていた足を止めた。足を止めるほかなかった。
吐く息が熱い。一瞬外界の音が途切れ、自分の呼吸音が大きく聞こえる。それは僕が今、夢の世界の前に立っているからだ。僕はそう確信した。
広場は桜で囲われていた。
桜の花びらがちょうちんの明かりを反射し、美しくも巨大な壁のようにそびえている。
その光景を少ない経験の中なら何かに例えようとして、絵本で読んだお城のダンスホールの様子が思い浮かんだ。豪奢な壁の中を闊歩する人々の姿はまるでダンスを踊っているように見えなくもない。しかし、それだけではこの場所の全てを自分の中に落としこむ事は出来ないと感じた。この場所は王様のお城のように豪華さ、明るさ、鮮やかさだけを詰め込んだだけでない。そびえ立つ壁の鮮やかさと対極的に、落ち着いた夜空の黒もまた、この場所を形作るピースの一つとして不可欠だった。
両親と妹が屋台で焼きそばを買い、持参したレジャーシートに座る。
桜の木の下で食べる焼きそばに桜の花びらが1枚添えられた。
僕は妹の手を引き、広場の周りを駆け回った。走るたびに、角度を変えるたびに、その桜たちは様々な絵を見せてくれる。その全てを見てやろうと、僕はただひたすらに走り続けた。
やがて疲れ果てた僕はレジャーシートに倒れこんだ。
桜の天井を見上げる。
黒い背景に光に彩られた桜の枝が走っている。
何故だか分からないけど、僕の目から涙が溢れてきた。美しいものを見て、感動の涙を流す、そんな事が本当にあるのだと僕はそのとき初めて知った。涙で視界がぼやける。ぼやけた桜はまるで天の川だ。白い綺麗な石が敷き詰められ、波打つ泡が光り輝いている美しい河川が、暗い夜空に流れている。
こんな美しいものがあったんだ。
僕はこの世界の美しいもののうち、最も価値のある一つを見たような気がした。

思い出のあの桜と比べて、今の目の前にあるこの桜の何が劣っているのか、俺には上手く説明できない。しかしあの時覚えた感動は、残念ながらこの胸に沸き起こらなかった。ましてや涙が流れる事など、あれから今まで一度としてない。
疲労感と、大勢の他人の中にいる不快感と、帰りの渋滞への倦怠感と、翌日の仕事に対する不安感とが蛇のように首をもたげ、俺の感情の蓋にまきついている。
ため息がこぼれそうになり、ふと息子を見る。

まだ幼い息子が一言も声を出さずに、ただじっと風に揺れる桜を見上げていた。

一陣の風が花から花びらを剥ぎ取り俺たちの周りにばら撒く。
ぼたん雪のように降りそそぐそれを、息子は口を半開きにしながら一生懸命目で追っている。

俺があの時見たような桜を、今息子は見ているのかもしれない。
ふと、そんな事に気が付いた。

今の俺は、感動をありのままに享受できるような、汚れない綺麗な両手ではなくなってしまった。どうしても濁った手垢が付着し、本来の輝きを損なってしまう。
しかし無垢な息子目を通してみたこの桜は、いつまでも記憶の中に咲き続ける。
そして俺の見たあの桜もまた、記憶の中で咲き続ける。
それでいいような気がした。
「桜、綺麗だな」俺はそう語りかける。
一瞬きょとんとした様子で俺を見た息子は、再び桜に目を移し「うん、さくら、きえい」と答えた。

スポンサーサイト

No.19 オビモンハナゾウムシ

家族三人で近所の名所へ花見に行ってきた。

IMG_7165.jpg

IMG_1578.jpg

桜の下に座り、持参したお弁当を広げる。

舞い散る花びらが皿の上に落ちるたび、息子が「はなみーはなみーいやーとってー」と言って花びらを取り除こうとする。花見と花びらという二つの単語ごっちゃになっているようだ。

そんな中、俺の服に一匹の虫が止まった。

IMG_0271.jpg

ゾウムシの一種だろう。

後に調べてみると「オビモンハナゾウムシ」に近いように見える。ヤマザクラなどの実に産卵する昆虫らしく、発見のシチュエーション的にも合っているのではないだろうか。

けっこう忙しなく動くので写真を撮るのに苦労した。

きっと周りから『あの人、花見に来てなんで自分の服の袖ばっかり写真に撮ってんだ』と思われたかもしれない。

まぁいいや。

天気は快晴、風も爽快、桜の花と、桜につく虫。

全身で春を感じられた一日だった。

どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~30

第30話「様々な表情を」

どうやったら俺たちの音楽を、より深みのあるものに変えられるか。
俺――正方寺陽介は、常にそんな事を考えている。

平の作る曲は素直にいい曲だと思う。
ただ、いい曲だからこそ、2人の声と平のギターだけで音楽の形にすることは、かなりもったいない事のように思う。
ならばいっそのこと、色んな楽器の仲間を集めバンド形式の音楽にすればいいんじゃないか、俺も最初はそう思った。でも平はそれが苦手らしい。
平がもともと、あまり大勢の仲間とワイワイやれるような社交性を持ち合わせていないことも、理由の一つではあると思う。
でももっと根本的な理由は別にある。
音楽は『好きなときに好きな場所で弾く事が出来る』もの。
平にはそういう拘りがあるからだ。

特別な機材や、メンバーや、場所が確保されていなくとも、その身とギター一つで表現できる音楽、それが平にとっての音楽。
アコースティックギターだけを相棒に、自宅の部屋で一人歌を唄っている音楽少年の姿が、あいつの根底にあるのだろう。
そんな平がデュオという形式を選び、俺をその相方として選んだ。
それはあいつにとって大きく踏み出した一歩であり、勇気と覚悟の決断なんだろうなと俺は思う。あくまで俺の予想だけど。
だとしたら俺は、その覚悟に応えたい。
この『2人』という形式で、平の曲を最大限に表現したい。

なら、俺はどうしたらいい?
それを色々と考えて、一つの結論に至った。
歌を唄うときに空いているこの両手。この両手で色々な楽器が弾ければ、それだけ音楽の幅は広がる。
考え抜いた挙句がこんな単純な結論だなんて、我ながら自分の馬鹿さ加減に笑えてくる。でもシンプルだからこそ、当たらずとも遠からずといった回答だと思う。
一つの楽器を極めなくてもいい。
ただ、その場にあるいろいろな楽器をほんの少しでも弾ける技術があれば、それだけで音楽の幅は広がってくる。そしてそれは平の望む『好きなときに好きな場所で弾く事が出来る音楽』にも合致する。
手始めにタンバリンを叩いてみた。カスタネットやトライアングルを鳴らした事もある。歌の合間に鍵盤ハーモニカを弾いてみる事もあった。
そのどれもが、曲に新たな表情を生み出してくれた。
そして、今度の学祭では、鍵盤楽器――キーボードに挑戦してみようと思った。

困難の先にある、2人の音楽の新たな表情を見たいから。

「俺に、ピアノを教えて欲しい」
そう切り出した時、清里さんは呆気にとられた顔で「ピアノを教える?」とオウム返しに聞き返した。
「ああ、ほんの少しでいい、ピアノを、って言うか学祭でキーボードを弾きたいんだ」
そう言って俺は自分の考えを伝えた。
黙って聴いていた清里さんだったが、俺が話し終えると頬を緩めて「そういうことか、なるほどねー」と頷いた。
「みんな忙しい時期に悪いんだけどさ」
「ううん、いーよいーよ、あたしはさほど練習しなくても大丈夫だし、ギターやってるひまりに比べて暇っちゃ暇だから。まかせといて」そう言って強く胸を叩く。派手な柄のTシャツに隠れた自称巨乳が揺れて、俺はなんだか目のやり場に困った。

「でもさ」
清里さんの目が急に鋭くなる。
それは今まで見たことのない、真剣な表情だった。
「生半可な気持ちでやってたら、学祭までにピアノを弾けるようには絶対になれないからね」

俺の背筋に電流が流れた。
自然と姿勢を正す。

「正方寺くんの考えにあたしも賛成だから全然協力するよ。でも弾けるようになるならないは正方寺くんの努力次第だから。普通に考えて一ヶ月の練習じゃ到底人に聴かせられるレベルにはならないよ。ピアノは両手を別々に動かすんだから、最初はその感覚に慣れるだけでも時間が掛かるし」
清里さんの言葉は胸に突き刺さった。
俺は自分の浅はかさを感じた。清里さんや金谷さんがいとも容易くピアノを弾いているから、頑張れば何とかなるのではないかと心のどこかで思っていた。
でも、そんなわけがない。
彼女は、ガキだった俺が友達とゲームや鬼ごっこで遊んでいた頃から、ずっとピアノを弾いていたのだから。
積み重ねてきたものが違いすぎる。
そして自分の発言は、そんな彼女たちの積み重ねを軽視した発言だったのかもしれない。
後悔の念で、清里さんを見ていた視線がテーブルへと落ちていく。
空になったティーカップと皿が並んでいた。
「あ、別に怒ってるとかそんなんじゃないから、勘違いしないでね! あたし正方寺くんを応援したいし! この前の合宿の時だってその――」清里さんの大声で俺は顔を上げる。彼女は音のしそうなほどの勢いで被りを振ったあと、大げさな笑顔を作り、すぐに視線を逸らして照れた表情を浮かべる「あたし、正方寺くんに勇気付けられたから、そのお礼もしたいし」
ころころ表情が変わるな、と俺は思った。
そして女性ってこんなに表情を変える生き物なのだと初めて気付いた。俺の知っている女性は常に笑顔で、でも目は全く笑っていなくて、いかに周りから抜きん出ようかを考えている。皆一様にそんな顔をしていた。
真面目な顔、笑った顔、照れた顔。
目の前の女性は、そいつらと比べて、本当に色んな表情を見せてくれる。

「いや、こっちも軽い気持ちでお願いしちゃったかもしれない。でも、心を入れ替えるよ。本気で弾けるようになりたいから、改めて、教えてほしい」
俺は頭を下げた。
自分の中にある甘い見通しを破り捨てて、その上で真剣にピアノが弾ける事を望んだ。
「わわわ、わかったって、頭上げてよ、別に怒ってないっていったじゃん!」清里さんは慌てた様子で両手を前に出しぶんぶんと振る「でも、珠美センセイは厳しいからね」そう言ってわざとらしく偉そうな顔をした。
また、新しい表情を見れた。

俺がピアノを学ぶ事で、俺と平の音楽は新たな表情を見せるだろう。
そんな期待に俺の胸は高鳴った。

それと同時に、目の前でドヤ顔をしている女性の新たな表情が見れるんじゃないか――それを期待し願っている自分に気付いて、なんだかなぁって気分になる。

俺も、平を心配してる場合じゃないのかもしれない。

記念日

4月7日は入籍5周年の記念日だった。
交際期間を含めて考えると10周年(交際を始めた日と入籍日が一緒)であり、そういう意味ではけっこう節目となるような日だった。

かといって何をするわけでもなく、普通に残業して飯食って子供かまって寝ただけなのだが。

日々の生活、特に仕事に関する比率が高まると、こういう個人的な記念日は「まぁ平日だし」って事でないがしろにされがちだ。
それは仕方のない事だし、妻も「次の休みにジェラート食べに連れてってくれればいいよ」と言ってくれるのだが、高速道路に乗ったところでちょっとした忘れ物に気付いてしまったみたいな、なんとももどかしい感情が小骨みたいに引っ掛かっている。

クリスマス、バレンタイン、ハロウィン、エトセトラ…
この歳になると、そういう国民的イベント日は結構どうでもいいと思い始めているのだが、未だに記念日に対して愛着を持っている自分にちょっと驚いたりもした。

たぶん、日々の積み重ねを感じるからだ。
新雪の上に出来た足跡や、階段踊り場の窓から見渡す眺望や、水の滴りで穿たれたアスファルトの穴や、そういう感じのもの。

日々の積み重ねを実感する時、あまりにも長い期間だと自分の身近な感覚を物差しにして落とし込んだりする。
3年というと中学高校の期間だとか、6年というと小学生の期間だとか、そういう身近な尺度に変換して初めて、その積み上げてきたものの大きさに初めて気付いたりもする。

妻と交際して丁度10年。
自分の人生のおよそ3分の1は彼女と共にあったわけだ。
そんなふうに考えて初めて、今まで色々あったけど、まぁよかったのかなぁと思えるのだ。

特別な事をする必要はないけど、その積み重ねてきたものの一つ一つを思い出しながら過ごそう。
そんなふうに思った4月7日だった。

どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~29

第29話「あたしの場合」

「み、みんな帰っちゃった、ねー」
部室で正方寺くんと2人きり。
それを意識すると、ついさっきまでの気の抜けた空気が途端に緊張感を帯びてくる。
普段は努めて明るく振舞ってはいるけれど、こういう肝心な時にかぎって舌がこんにゃくみたいになってしまうのがあたし――清里珠美の情けないトコロだと心底思う。

みんなそれぞれの生活があって、その円のちょうど重なりあう部分が部活なのであり、当然重なり合わない部分での事情なんかも存在する。そういう事情のタイミングによっては、こんなふうに部室に2人で残される可能性だって当然あり得る。今までこうならなかったのは、あたしとひまりの円がけっこう広範囲で重なり合っていたためで、要するにあたしたち2人は基本セットで動いていたからだ。
でも最近、ひまりの円が少し広がったと思う。その広がりは今この部室に居ない部員の1人――平均の円と微妙に重なりそうでいて、まだ重なってはいない。

「あ、お茶飲む?」ファッション誌をテーブルに置いて、あたしはいそいそと立ち上がる「この間、駅前で新しい紅茶を仕入れてきたんだ」
「ああ、ありがと。飲みたい」正方寺くんは手元の本――最近読み始めた声帯関連の医学書――から目を離し、あたしの目を見て頷く。頷いた時の上目遣いの表情がやっぱりかっこよくて、あたしは恍惚の吐息を漏らしてしまった。

夏の合宿で正方寺くんに悩みを打ち明けて以来、心なしか正方寺くんの反応が優しくなったように感じている。いや優しくなったというか、あたしという存在をしっかり認めてくれているような、そんな感じ。
だからあたしも、自然と素の自分を出して正方寺くんと向き合うようになれた。
そりゃ、あたしの思い違いの可能性もあるけどさ。

「この前、平に呼び出されて、あいつのアパートに行ったんだけどさ」そう言いながら紅茶を一口飲む「あれ、これ、ほんのり甘い」
「アップルティーなんだけど、ハチミツを少し入れてみたよ。ほら喉にいいって聞くし」
「おお、サンキュー」
「それで、平のアパートに行って、どうしたの?」
「ああ、ごめん。えっとな、あいつ頭の中、完全に金谷さんでいっぱいみたいで」困ったように笑う「曲が作れないって嘆いてたよ」
「それは一大事だ」あたしは口元を押さえて笑う。ざっくばらんな性格を気取っているけど、やっぱり好きな人の前で大口を開けて笑うのは恥ずかしい。
平がひまりの事を好きなのは完全に周知されている。ていうかバレバレすぎて隠せていない。気付いていないのは思いを向けられている本人、ひまりくらいだろう。
「これでもし、金谷さんに告白して振られでもしたら、どれだけ落ち込むかわからんわ」正方寺くんは笑顔で続けるが、そんな平くんを心配してるって事はすごく伝わってくる。
「あ、あー」あたしは続く言葉を言うか言うまいか躊躇した。
ひまりだって、平の事が好きだと思うよ。それを言って安心させるべきかどうするか迷った挙句、それはいけない、本人同士の問題だからと口を噤んだ。
ただ「そこは、そんなに心配しなくてもいいと思う」と呟いてから「あ、そういえばクッキーもあったんだよね、食べる?」と話を逸らした。

しばらく2人でクッキーを摘まむ。
無言が、なんだか心地よい。
お互いがお互いの存在を認め、許容し、その上で生じる無言であれば、多分おしゃべりしてるのと同じくらい2人の距離を縮めてくれるような気がする。
あたしたち2人はどうなのだろう。
そんな事を考えながら正方寺くんを見る。
正方寺くんはクッキーの感想を促されたと思ったのか「うまいね、これ」と呟く。
「どこで買ってきたの?」
「これも駅前の洋菓子屋だよ」
「へー、今度俺も差し入れで買ってくるよ」
「楽しみにしてるね」あたしはもう一枚クッキーを摘まむ。

あたしたち2人の円は今以上に重なり合うのだろうか。
同じ部活の部員同士、ただそれだけの関係性が、今後変わっていく事はあるのだろうか。
あるかもしれないし、ないかもしれない。
でもそういうのの始まりって得てして、秋の始まりに吹く風みたいに、唐突に頬の体温を奪って、乾いた木の葉を舞い上がらせたときに初めて気付くものだと思う。

「そういやさ、清里さんに頼みがあるんだ」クッキーを食べ終えた正方寺くんは、あたしの座るテーブルの方に向き直る。
「え、なに?」その改まった様子に、こちらも自然と背筋が伸びる。

「俺に、ピアノを教えて欲しい」

秋の風が吹いた。
2人の円が、少しだけ触れ合ったような気がした。


No.18 トビイロツノゼミ

春の日差しが心地よい日曜日。

子供が庭を走り回っている。

IMG_4930.jpg

ふと、車のフロントガラスに茶色くて小さな虫が止まっている事に気付いた。

トビイロツノゼミだ。

IMG_0215.jpg

ツノゼミというと海外の「何の意味があるんだコレ」と首を傾げたくなるような異様な突起を持つ種類が良く紹介される。

そられに比べるとこいつは地味だが、胸部の背面に微妙な突起があり一応ツノゼミの面目を保っている。

ちなみにトビイロとは「鳶色」と書き、「茶色っぽい」という意味で虫の名前に良く使われるようだ。トビイロケアリとか、トビイロウンカとか、色々。総じて地味。

でも、そんな地味で目立たない「小さい春」を見つけられたことに、胸が高鳴った。


プロフィール

幕田卓馬

Author:幕田卓馬
糖、脂質、プリン体、塩分などに気を配らないといけない歳になりました…若い頃の不摂生が原因でしょうか。まだ三十路、されど三十路!
そんな男が日々の合間に小説を書いています。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。