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どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~28

第28話「深夜徘徊」

月の綺麗な夜だった。
作詞に行き詰った僕は、歩いて15分ほどのコンビニに飲み物を買いに行くという目的を自らに課して、のろのろとアパートの部屋を出た。
高校の体育祭の時にクラスで作った安っぽい手作りTシャツに、腹回りのゴムが伸びたジャージ姿だったが、深夜0時過ぎにオシャレして外出する必要性はない。ポケットに突っ込んだ財布の重みでズボンがずり落ちそうになるのを度々直しながら、僕は人通りの途絶えた夜の住宅街を歩いた。
街はしんと静まり返っている。
10mくらいの間隔で並ぶ黄色い光を放つ外灯が、建ち並ぶ古い民家の黒ずんだ外壁を照らしている。生垣の隅からコオロギの書く声が聞こえ、僕は秋の到来を予感した。
サンダルの底でアスファルトを擦る音が虫の声と交わる。
夜の音楽祭に自分が仲間入りできたような気がして、高揚した心がサンダルの奏でるリズムを早める。

自分が何を歌いたいのか、考える。
自分が何を伝えたいのか、考える。
考えれば考えるほど、それらはどんどん増殖していき、頭の中を埋め尽くしてしまう。
その中でどれが一番なのか決める事が出来ず、花屋の前で首をひねるように、レンタルビデオの棚の前で立ち尽くすように、ただ呆然とそれらを眺める事しか出来なくなる。

右側に石段が見える。
石段を少し上ったところに神社がある。
大学に入学した手の夏、この神社で行われた町内会の夏祭りを何の気なしに見に行った事があった。しかし特に祭りに参加するわけでもなく、ただ傍観者として神社脇の土手に寄りかかりながら祭事に盛り上がる町内会の人達を見ていた。
でも別に寂しかったわけじゃない。
自分の知らないところでも伝承された何かがあって、それらは絶えることなく来年、再来年に続いて行く。感覚的に自分の今まで生きてきた場所でしか世界を知らなかった僕にとって、そんな当たり前のことがすごく新鮮に感じていた。

僕は一人が好きだ。
多分、それは間違いない。
人は一人でも頭の中で色々な世界を作って、そこで楽しむことが出来ると僕は思う。
でも大学に入って、弾き語り部門のみんなと出会い、一人じゃない楽しさも実感している。それと同時に、今まで自分の周りにいてくれた様々な人達への親愛の感情にも改めて気付かされた。
僕が知らないだけで、皆それぞれの考え、歴史を持って生きている。
それがとても素晴らしい事のように感じて、彼らの中に存在する古い本のような歴史を尊重し、守っていかなければならないなと思った。
あの夏祭りの夜と同じ様に。

積み重ねてきた歴史と、これから作って行く歴史。

神社の石段に腰を下ろして空を覆う木々の屋根を見上げた。
夜の黒にも違いがあることに気付いた。空の黒は薄く、広葉樹の作る黒はそれを多い尽くすほどに黒い。
同じ色、同じ人間は存在しない。
同じに見えても、並べてみれば必ず違っている。
一つ一つの歴史が特別で、一つ一つの歴史が大事だ。

コンビニの明かりはこの場所に不相応なほどに明るく、暗闇になれた僕はその眩しさに目を細めた。
自動ドアが開くと奥の飲料コーナーに向かい、コーヒーと缶ビールを1本ずつ掴む。コーヒーは帰宅がてらに飲むつもりだ。スナック菓子が僕を誘惑してくるが、それを振り切ってレジに商品を置く。
「平くんじゃん」レジの女性が僕を見てにっこり笑う。
「あ、田中さん」それは同じ大学の同級生だった。風の噂で大学近くのコンビニでバイトしている事は知っていたけど、まさかここで顔を合わせる事になるとは。
「こんな時間まで起きて何してるの、勉強?」田中さんとはほとんど話したことはない。学籍番号が近いから実習などで同じ班になる事が度々あったけど、その程度の関係ではある。でもこのあけすけな笑顔が印象的で、とても好感の持てる女性だった。
「いや、学祭の準備を」作詞作曲と答えるのは気恥ずかしくて、そう曖昧に答える。
「軽音楽部だったよね」他に客がいないため、田中さんは話を広げる。
「うん、弾き語りの方だけど」
「学祭の発表楽しみにしているよ。絶対見に行く」
「ありがとう。田中さんは、バドミントンだったっけ」
「うん。から揚げの屋台をやるから、食べに来てね」
「へぇ、から揚げいいね」
「羽――つながりでね」
「なるほど」
「あ、から揚げ棒が今一個増量だけど、ついでに買っていかない?」
「いや、遠慮しときます」
「ははは。えっと会計は、382円です」
「ポイントカードで」
「はーい、ありがとうございます」
「バイトがんばってね」
「平くんもね」
自動ドアを抜けて振り返ると、田中さんは笑顔で手を振っていた。
女性が苦手な僕だけど、何とか上手く受け答えが出来た気がする。誰に見られる心配もないけれど、密かに心の中でガッツポーズした。

缶コーヒーをちびちび口に含みながら家路を辿る。
口の中に残る苦味が意識を覚醒させ、ほんの少しだけど思考の整理を助けてくれる。
自分が何を歌いたいのか、何を伝えたいのか、一番を決める事は出来ないのかもしれない。
僕とって、杉田先輩や五智先輩も、正方寺も、ひまりさんも、清里さんも、中学・高校時代の友人や両親、それにさっき会った田中さんも、みんなそれぞれ違った影響を僕に与えてくれた。
僕の周りを形作る「世界」はその全てが複雑に絡み合って作られているのであって、その中から一つを取り出したところで全てを伝える事は出来ない。

いや、ごちゃごちゃ考えすぎだ。

僕自身の今を切りとっとき時、その断面はどんな形だ。
色々な感情が混ざり合って、とてもじゃないがシンプルに言い表せない形。
でも、それが今の自分じゃないか。
一番を決められず、迷い、混乱しているのが、紛れもなく今の自分じゃないか。

きっと、社会に出たらそんな迷いはなくなる。
仕事しいてはお金、それによって支えねばならない家族。優先順位が明確に設定され、それに従って考えを整理していかないといけなくなる。
こんな事をごちゃごちゃ考えられるのは、多分モラトリアムの今だけだ。

迷い混乱した歌を作ろう、考えがまとまらない歌を作ろう。

きっとそれは今しか歌えない歌に違いない。

そう決めると歩く足が急に軽くなった気がした。
虫達の奏でる音色が、六弦の奏でる音楽となり僕の頭の中で響き渡る。月や、星や、民家や外灯の明かりですら何かしらの音楽を奏でているような気がする。
歌詞とメロディーが自然に湧き上がってきて、滴る清水を受け止めるように僕はその音楽に手を伸ばす。両手のお椀の中に落ちてきたその雫は、最初は冷たく、すぐに自分の体温に温められた。
雫を大事そうに抱えながら、僕は家路を急いだ。

今夜は名曲が産まれそうな予感がする。



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恐怖心の文章化その2

『海』


僕は学校からの帰り道が嫌いです。
先生が見ていないからって、トオルくんとケイスケくんが僕を叩くからです。
今朝は雨が降っていたので2人とも傘を持っていました。その傘の先で僕の頭を叩いたり、曲がっている部分で僕の足を引っ掛けたりするのです。僕は勇気を出して「やめてよ」と言ったのですが、2人とも僕の顔を見てニヤニヤ笑うだけで、やめてはくれませんでした。

海の近くまで来ると僕と2人は別の道に分かれます。帰る家の方向が違うからです。トオルくんが「また明日もあそんでやるからな」と言いましたが、僕は全然嬉しくありませんでした。
二人とさよならして、ほっと胸を撫で下ろしました。この道に入って始めて、僕は辛い学校が終わったと実感する事が出来るのです。
足元の石ころを蹴飛ばしながら、僕は海沿の道を歩いていきます。
「こんにちは」と挨拶しながら、漁師のおじさんや魚を容器に並べているおばちゃんの横を通り過ぎました。コンクリートの地面の向こう側に広がる海では、冬のプールみたいに濃い緑色をした水が揺れていました。
漁師のおじさんやおばさんが見えないところまで歩くと、道は二又に分かれます。左の山の方に向かってゆるいカーブを描いている道と、このまま真っすぐ海沿いを通る道。
どちらに行こうか。
家に帰るなら、迷うことなく山の方に向かう道を選ぶべきです。その道はやがて人通りの多い大きな道につながり、その向こうに僕の家があります。
反対の海沿いの道はしばらく歩くと行き止まりになっているため、あまり通る人が居ません。昔はこの先に船着場があったとお母さんが言っていましたが、今はそこもなくなってしまってこの道だけが残っているらしいです。
「海に落ちると危ないから、古い船着場の方に行ったらだめよ」といつもお母さんは言っていました。たしかに道の端には足首くらいの高さの出っ張りがあるだけで、その先は深い海が口を開けています。もし落っこちても誰にも気付いてもらえないよ、とお母さんはいつも決まって恐い顔でそう続けます。確かに、僕もこの道の先で人を見かけたのは今まで2,3回くらいしかなかったような気がします。どちらも釣り糸を垂らした見かけない顔のおじさんでした。
でも、僕はこの海沿いの道が好きでした。
誰にも邪魔されず一人で道の端に腰掛け、足をぶらぶらさせながら波の揺れを見ていると、僕は海という大きなお母さんに抱っこされているような気持ちになって、なんだかすごく安心するのです。
だから僕は、トオルくんやケイスケくんに叩かれた日には、決まって海沿いの道を歩く事にしていました。

『この先行き止まり』と書かれた看板を横目に、ポールに張られた鎖を潜って僕は海沿いの道を進みました。向かう先は道の半分を少し過ぎたあたりです。そこはちょうど道の端の出っ張りが途切れていて座りやすいのです。
いつもの場所に、いつも通りの体勢で座ると、いつものように遠くの水平線を眺めました。秋も終わりが近いので、冷たい風のなか海の上を漂っている一隻の漁船も、なんだかすごく寂しそうに見えました。
続けて僕は足元に広がる海を見ます。
僕の靴の1メートルくらい下で、濃い緑色の水と白い泡が揺れています。
ここの海はすごく深いとお母さんが言っていました。僕の学校が全部沈んでしまうくらいらしいです。そう考えると、僕は足の先がジワジワむず痒くなりました。僕は高いところが苦手なのです。

そして僕は初めて、そいつの存在に気付きました。

水中に二つの白くて丸いものが浮かんでいるのです。
それはドッジボールくらい大きく、中心には握りこぶしくらいの黒い円が見えました。
僕にはその丸が、何かの「目」のように見えました。

そう、それは目でした。
見たこともない巨大な生物の目が、僕の方をじっと見ていました。

海の水は濃い緑に濁っていて、そいつの体をぼやけさせます。
押しては返す波が海の水の色合いを変えるたび、その下に潜んでいるそいつの黒い輪郭が表われては薄れていきます。
白い二つの目を中心に、楕円形の輪郭がぼんやりと見えました。
空き地に捨てられてボロボロになったゴムタイヤみたいな質感で、表面にはところどころ白い粒が付着しています。多分テトラポットの表面にくっついているみたいな貝の仲間が、こいつの表面にも同じ様にくっついているのでしょう。
長い間、じっと、こいつは海の中に佇んでいたのでしょうか。
ぼんやり見える輪郭から下を僕は想像しました。
打ち寄せる波の下でもまったく動かないのは、こいつが海底に足をつけて立っているからかもしれません。両足をしっかり海底の砂に潜り込ませ、僕が夜空を見上げるみたいな姿勢で、じっと海面を見上げているのかもしれません。
そうだとしたらこいつは、なんて巨大な生き物なのでしょうか。
クジラ、サメ、大王イカ、そんな海に住む巨大な生き物と目の前のこいつを照らし合わせてみましたが、そのどれとも違っていて、そのどれよりも大きな生き物だと感じました。

その目は、海上から見下ろす僕の姿をじっと睨んでいるようでした。

どれくらいの時間、僕はそいつと睨み合っていたのでしょうか。
数分間のような気もしますが、数時間を無理やり数分間に押しつぶしたみたいな、そんな不自然な時間の流れを感じていました。
そいつはゆっくりと、僕から目を逸らしました。
緊張による金縛りが解け、重石を乗せられたようなダルさが全身を襲いました。暑くもないのに体中に汗が滲んでいて、冷たい風が吹くと体温が急激に奪われていきます。コンクリートの地面に倒れこみたい気持ちになりましたが、この海の中にいる何かから目をそらす事が恐くて、じっと同じ体勢を続けていました。
その目は見開かれたまま全く動きません。

だんだんと、好奇心が恐怖を包み込んでいきました。

水中で僕を見ながらも何も行動を起こさないこいつは、僕にとって何の害もない生き物なのかもしれません。
水面という薄い境界線が、分厚い強化ガラスの板のように僕とこいつの世界を隔てている、そんな気がしました。
そんな気持ちで心が満たされると、水族館で珍しい魚を眺めているみたいな安心感が芽生えてきました。ガラスの板を指先でコツコツと叩きながら、中の魚たちの反応を楽しみたい、そんな余裕さえ生れてきました。
だから僕は、手元に転がっていた小石を掴むと、そっとそいつの目に向けて落としました。

小石は真っすぐに目玉の方に落ちていき――

目にぶつかりました。

眼球が動き、僕の姿を捉えました。

覚悟はしていたものの、急に睨みつけられ僕はビクッと身震いしました。
立ち上がろうとして足を動かしたそのとき、靴の踵がコンクリートの壁面にぶつかり、右足の靴が水面に落ちてしまいました。
僕はそれを拾い上げようとして――慌てて手を引っ込めました。

水面に裂け目が出来ています。
二つの目の下、口のある部分が大きく裂け、靴が水流と共に裂け目へと流れ込んでいきました。

ぶ厚いガラスの板に、ひびが入る瞬間でした。

食べようとしているんだ。

それに気付いた瞬間、僕はバネみたいに跳ね起きると、さっき来た道を全力で駆け戻っていました。

食べようとしていた。
あいつは、僕を食べようとしていた。

噛みしめた奥歯ががちがちと音を立てています。
家の前の通りまで来たところで初めて、靴下越しに足の裏に突き刺さる小石の痛みに気が付きました。
玄関で靴を脱ぎ、出したばかりのコタツにもぐりこむと、僕は赤くなった右足の裏をさすりながら、あの巨大な生物がなんなのか、それだけを考えていました。でも、考えたところで何も分からず、想像は想像のまま頭の中をぐるぐる回るだけでした。

やがて氷のような僕の緊張も、コタツの温かさで徐々に溶けていきました。
気が付けば、夕日が窓から射し込んでいました。

   ○

次の日の帰り道も、またトオルくんやケイスケくんに叩かれました。
木の棒で頭を三回叩かれて、痛くて涙が溢れました。
その涙を冷たい海風が乾かした頃、僕は再び二又の道の前で立ち止まっていました。
優しい海に慰めてもらいたい、そんな昨日までの感情は全く起きませんでした。
ただこの先のあの場所で、まだあいつが水面を見上げているのか――その好奇心だけが呪いみたいに僕の心を握りしめていました。
お母さんと一緒に恐い映画を見ていると、主人公は自分から進んで悪い人や怪物に近づいていっているように感じることがあり、不思議に思っていました。
でも実際自分が同じ様な立場に立つと、なんとなくその人達の気持ちがわかった気がしました。
その気持ちは『よくわからないもの』を『よく知ってるもの』に変えて安心したいという感情から来るのかもしれません。

僕は「よし」と頷くと再び鎖をくぐりました。

いつも座っている場所の近くで立ち止まり、恐る恐る海に近づこうとしたその時、
「あーいけないんだ、いけなんだ!」とトオルくんの叫び声がして僕は後ろを振り返りました。そこには腕組をしたトオルくんとケイスケくんが立っていました。
「おめー、ここは立ち入り禁止なの知らないのかよ?」トオルくんがいいました。
「看板に書いてあるのに、読まなかったのかよ」ケイスケくんが僕の腕を掴み、そのまま後ろで手を絡めて羽交い絞めにしてきました。
「悪いやつには罰が必要だ」トオルくんはそう言うと、僕のお腹を蹴り上げました「どうだ、必殺のサンダーローリングキック!」
「や、やめてよ……」僕はそう叫んだつもりでしたが、吐き気で痙攣した喉からは風の音みたいな声が漏れるだけでした。
「なに、聞こえねーよ」トオルくんの右手が、僕のお腹を凹ませました「許して欲しかったら罰金100万円な」
「そんな、お金、持ってないよ……」僕は首を振りました。知らない間に口の端から垂れていたよだれが、自分の頬に張り付きました。
「俺の言う事が聞けないのかよ!」トオルくんが僕の肩を押し、僕と、僕を羽交い絞めにしているケイスケくんは、一緒にコンクリートの地面に転がりました。
「トオルくん、やりすぎだよ」困った顔で口だけで笑うケイスケくん。
「おお、わるいわるい」悪びれもせず口だけで謝り、視線は僕から離さないトオルくん。
地面から立ち上がろうとした僕の背中に、トオルくんの体重が圧し掛かりました。
コンクリートの地面に押し付けられたお腹の骨が軋んでいるような気がします。
「重い、痛い、やめて!」僕は叫びました。
「自力でここから出られたら、今日は見逃してやるよ」僕の背中に馬乗りになったトオルくんは、そう言って僕の背中を叩きました。
僕は両腕に力を込めて起き上がろうとします。
でも、僕より一回りも二回りも大きなトオルくんの体はびくともしませんでした。
「カエルみたいでだせー格好」そんな僕の姿をケイスケくんは笑っています。
「ううううう」薄着の肘に小石が突き刺さり、鋭い痛みが襲います。でもその痛みを乗り越えて起き上がらなければ、僕の本当にお腹は潰れてしまうのではないか、そんな恐怖から死に物狂いに両腕に力を込めました。

その時、一際大きい波音が聞こえた気がしました。

「あ、あ、」ケイスケくんの声がしました。

僕は俯いていた顔をほんの少し上げました。
視線の先にはコンクリートの地面、その地面の端から広がる濃い緑色の海。

その海の中から、あいつが顔を出していました。

海面から島のように盛り上がった黒く巨大な頭。テレビで見たクジラの死体みたいに、水で濡れてテラテラと光を反射するその体表には、複数の白い貝が張り付いていました。
そして海面すれすれのところから覗く、二つの巨大な目。
目じりと目頭に赤い血管が波打っている、大きく見開かれた目。
その目は、僕たち三人をじっと見つめているようでした。

「な、なんだよ、あれ、なんだよ」ケイスケくんがぼそぼそと呟きました。
僕は唖然として、あいつの姿を眺めていました。
2人の様子に気付いたトオルくんも、僕から海へと視線を移しました。

そして、水面から現れた、骨ばった長い腕。

その腕がものすごい勢いで伸びてきて、僕の上に座るトオルくんの身体を握り締めました。
間近で見たそいつの腕からは、腐った魚と潮の臭いがしました。

「え、え」何が起こったか理解できない様子のトオルくん。
しかし体を締め付ける圧力に気付くと「あ" あ” あ” ! ぐるじい”!」と潰れたヒキガエルみたいな声を出しました。
僕の背中を生温かいものが濡らします。それは多分、トオルくんのお漏らしでした。
そいつは水面から口を出しました。
黄色くて細かい歯が、赤黒い口の中いっぱいにやすりみたいに並んでいました。
トオルくんはそのままそいつの口元に引き寄せられ、洞窟のようなその口の中に投げ込まれました。
「たすけ――」叫び声はあっけなく途切れました。

そいつの口の端から、赤い液体が一筋こぼれました。

   ○

それからの事を、僕はよく覚えていません。
ただ、次の日からトオルくんは学校に現れず、ケイスケくんもどこかに転校していきました。
転校までの数週間、ケイスケくんは「トオルくんは黒い怪物に食われたんだ」と叫んでいましたが、大人は誰も信じていないようでした。
極端に海を恐がるケイスケくんを気遣って、海のない県の小学校に転校したと誰かが言っていたような気がします。

そして、僕の日常に平穏が訪れました。

あれからあの海には行っていません。
もう、行く必要がないからです。

   ○

そして、俺はしばしの夢想から目を覚ました。

炎天下の海上に救助用のボート一つで投げ出され、数時間が過ぎただろうか。
携帯電話のGPSは作動しているから、運が良ければ、そろそろ救助が着てくれるはずだ。
そう、運が良ければ、だ。
俺は水面を見渡す。
複数の、巨大な目玉が、水面を漂っていた。
この深く広い海の中に、あいつらは何匹生息しているのだろうか。
一匹が水面から頭を出す。
続けて二匹、三匹と、黒くヌメった頭が水面から突き出てくる。
その血走った複数の目は、俺を取り囲むように並んでいる。

トオルくんの最期が脳裏を掠める。

俺のこめかみを、冷たい汗が流れた。


【コメント】
深い海が恐い。
自分じゃ視認できない海の中で、様々な生き物(中には驚くほど巨大なやつら)が存在しているかと思うと気が気じゃない。
ちっちゃいボートで海原をクルージングしている人達なんて、正気の沙汰じゃないとさえ思う。ましてや海峡を泳いで渡るとか意味が分からない。
そんな「海の中に未知の巨大な生物がいたら恐い」を文章化した。
子供の一人称で話を書くという方法を初めて採ってみたが、語彙の少ない子供の表現力で事象を説明する事にものすごく苦労した。
多分、この手は二度と使わない。

群馬・伊香保温泉(その2)

2016年3月19日~20日 群馬・伊香保温泉(その2)

○1日目(温泉街と旅館の夜)

部屋でだらだらとお茶を飲む。
妻は荷物を整理している。
息子は持参したトミカを走らせている。
長距離移動の疲れも癒えたところで、早速温泉街に繰り出す!!

石段を見上げた。
群立する宿や店を石段が分断している。
まるでモーセに割られた海のようだ。

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3連休という事もあり観光客は比較的多いと、運転手のおっちゃんが言っていた。
特に若い団体が多いのは卒業旅行や春休みのシーズンに被るからだろうか。古い旅館とはいえ宿が取れた幸運を改めて実感する。
まずは石段を下ってみたが途中で店がなくなってしまったため、上りに進路を変更する。子供連れのため石段を上から下まで往復するのは難しいし、石段の上方を中心に攻めていこうという作戦だ。
目に飛び込んでくるのは、射的、湯の花まんじゅう(温泉まんじゅう)、酒屋、土産物屋などなど。
石段周辺は主に観光用の店が建ち並ぶ。
石段をそれて横道に入ると、居酒屋やスナックなど宿泊客向けの店が多い。
「よいしょ、よいしょ」
掛け声に合わせて息子が一生懸命石段を登る。妻が手を繋ぎ、自分は後ろに立って万が一の落下を防止する。

途中で浴衣の女性5人組(大学生?)が同じ様な年齢の男性集団にシャッターを押してもらっていた。
「ありがとうございます」にこやかなお礼の言葉に華やぐ男性集団。女性5人組が再び石段を上り始めると、男性集団はなんかよくわからない事を言い合いながらはしゃいでいた。
温泉街という特別な空間での異性との接触に、気分が高揚したのだろう。
『何か素敵な出会いが起こりそう』旅とはそんな気持ちにさせてくれるものだ。
その気持ち、おっさんもわかるよ。

石段を上りきったところにある『伊香保神社』には参拝客が並んでいた。
特別参拝はせず、まつぼっくりを拾って遊ぶ息子にしばし付き合った。

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石段を下りながら伊香保焼き(でっかいたこ焼き)と地酒らしきものを買う。
息子には(なぜか自販機で売っていた)ヤクルトを買い、旅館の部屋に戻った。
伊香保焼きを食べながら地酒を一杯ひっかける。

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夕食前に一人温泉に入った。
息子と一緒に入る下見の意味合いもある。
温泉は決して広くはなかった。入って正面に洗い場があるが、使えるシャワーは3箇所のみ。左奥にも洗い場があるけど、現在は使用禁止らしい。浴槽もなぜか半分板で覆われていた。
この時間帯という事もあり風呂は貸切り状態。
「うー、あー」と唸ってみたり、「いーきもちだー」と呟いてみたり、ぐるぐると回ってみたり、一人の時間を楽しんだ。
お湯の温度は若干温め、泉質もやさしい感じなので息子も入れるだろう。
ただ浴室内は外気が吹き込んで肌寒いため湯冷めに要注意。

風呂から上がり夕食の準備された広間に向かう。
どうやらここは食事処として宿泊者以外にも解放されているようだ。名札の立てられた席以外にも、数組の食事客がいた。
料理は最初しゃぶしゃぶと小鉢が並んでいて、後にまいたけの天ぷら、岩魚の塩焼き、茶碗蒸し、まいたけご飯が運ばれてくる。
時期的に山菜の天ぷらなんかもあればなーと期待していたが、まぁそれは仕方ない。料理は美味かったし問題なし。

夕食後、つまみを買いに一人で夜の温泉街に繰り出した。
時刻は19時30分頃だが、観光客用の店はほとんど閉まっていて人通りはまばらだ。温泉街の就寝時間は思いのほか早い。

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石段を少し上ったところにある駄菓子屋でうまい棒と堅あげポテトをかごに入れる。
直後に大学生くらいのフレッシュカップルが出現し、キャッキャウフフしながら駄菓子をかごに入れ始めた。
見るからに幸せそうな彼らの目に、一人で駄菓子選んでいるおっさんの姿は滑稽に映っているのではないかと思い、自意識過剰とは知りつつも妙に萎縮しながら彼らをやり過ごす。
レジに並ぶ若者の後姿を見て、ふと「可能性」という言葉が浮かんだ。
彼らにあって、俺にはないものだ。

宿の前まで来ると、ちょっと思い立って入り口を通り過ぎてみる。
新しい道が開けるかと思いきや、そこは何も無い袋小路だった。

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目の前には壁がある。
だから自分はどこへも進めず、これからもここに留まり続けるしかない。
可能性という羽根やプロペラはもはやなく、自分は踏み固められた代わり映えしない地面に根を張ったまま、一生を終えるのだろう。
でも、この場所に何か不満があるのか?
宿で俺の帰りを待っている妻子の顔が頭をよぎる。
この場所に来た事を後悔しているのか。
俺は首を振る。後悔は、ない。

暗闇が笑った気がした。

その夜、妻と息子が寝静まったあと、広縁の椅子に座り日本酒をちびちび舐めながら『絡新婦の理』を読んだ。

○2日目(友人宅、そして帰宅)

朝食なしのプランにしていたため、前日にコンビニで買っていたパンを頬張った。
9時に旅館を出て、温泉街に後ろ髪を引かれながらも車に乗り込む。

高速道路では「星の王子さま」をテーマにした寄居PAに立ち寄った。

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俺も妻も恥ずかしながら原作を読んだことがないのだが、折角だから寄りたいという妻の要望に応えた感じ。
しかしPA内の各所に貼られた文章の切り抜きをちらちら眺めていると、俄然興味が湧いてきた。
折角だからと原作本を一冊購入する。
久しぶりに100円以外で本を買ったぜ。

そして埼玉県某所の友人宅に向かい、用事を済ませる。
その後友人に案内され車で15分くらいのところにある「忍城」へと赴いた。歴史には明るくないのでよく知らないが、どうも映画「のぼうの城」の舞台になった城らしく、その事を前面に押し出した観光アピールをしていた。

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10分くらいで回れてしまう規模だけど、城壁の白と松林の緑が美しく、春の陽気とあいまってなんとも心地よい雰囲気だ。
もうちょっとタイミングが遅ければ桜を観に来る人達でごった返すらしい。
桜を見れず残念と思うべきか、混んでなかった事を幸運と思うべきか。
息子は堀の鯉にテンションが上がって、落ち葉をしきりに堀の中へ投げ入れていた。こらこら、やめなさい。

16時に友人とサヨナラし、20時に自宅のあるJ市へと辿り着く。

お疲れモードの大人2人とまだ元気一杯の子供1人は、なんだかすごく久しぶりの気がしる自宅のベッドに潜り込んだ。
明日も休みだから、仕事の不安を感じることなく朝までゆっくり眠れそうだ。

こうして、今回の旅行は幕を閉じたのであった。
伊香保温泉は、夏ごろに行ってもまた一味違った情緒を楽しめそうだ。
機会があれば、また……。



群馬・伊香保温泉(その1)

2016年3月19日~20日 群馬・伊香保温泉(その1)


そろそろ、どっか旅行に行こう。

幕田家の旅はいつも、退屈な日常に辛抱を切らした俺の一言が始まりの汽笛となる。

とは言うものの、今回はそこまで感情に振り回されて旅行を決意したわけじゃない。
実はいろいろと諸事情があって、埼玉の群馬よりに住む友人に会いに行く必要が出てきたのだ。
それに際して、どこか近くの温泉に前泊しようという話になり、有名だけどまだ行ったことのない伊香保温泉に白羽の矢が立った。

伊香保温泉といえば365段の石段で有名な群馬屈指の温泉街である。

俺がN県にいる間に一度は行ってみたいと思っていた温泉であり、このチャンスを逃す手はないと予期せぬ出費に渋る妻を口説き落としたのだった。

1ヶ月前の宿泊予約だったが空いている宿はほとんどなかった。お手頃な値段設定のところから埋まって行くので、残るのはめちゃくちゃ高いホテルか、安さに重きを置いた若干しょぼくれた旅館しかない。
懐事情から考えて、当然後者だろう。
でもまぁ、要は温泉街の雰囲気を感じられればいいんだ。

○1日目(伊香保温泉への旅路と旅館)

当日は9時に出発。
高速道路は遠回りかつ料金が発生するため、南魚沼方面に抜ける山道を行き、湯沢ICから高速道路に乗る行程とした。
天気はあいにくの雨。
霧のように髪や肩をじんわりと濡らしていく絹糸のような雨。小ぶりの水滴がフロントガラスにへばりつき、連日の黄砂と混じったそれをワイパーが強引に拭き取った。
しかし山道を抜けると雨はあがり、灰色の雲の切れ間からはほんの少し日の光も射し始めた。
「私、晴れ女だから。すごいでしょ」と妻がドヤ顔をする「晴れになる確率は4割くらい?」
「いやそれって微妙だろ。4割ってけっこう普通じゃん。晴れ女を名乗るならせめて6~7割は晴れにしろよ」
「4割で十分じゃん」
そんな事をいいながら湯沢IC近くの公園の駐車場に車を止める。
ここで作ってきた昼飯を食べる予定だった。
子供が外に出て遊びたがったが「ウインナーあるよ」というと「ういんなーたべゆ、ういんなーたべゆ」と言って再び車に乗り込む。
セカンドシートを倒してお弁当を囲み座った。

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湯沢といえば関東圏の人々にとってウインタースポーツのメッカなのだろう。
観光用の巨大なホテルや別荘なんかが乱立しているが、どこまで集客を得ているかは疑問だ。特に今年は暖冬で雪が極めて少ない。どれだけスキー客を呼び込めたのだろう。
灰色の空と相まって建ち並ぶ巨大建造物がなんだか物悲しく見えた。

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飯を食って、高速に乗る。
長いトンネルを抜けると群馬県だ。
水上ICを過ぎて(水上温泉にも一度行ってみたいなぁ)しばらく走ると、目的の渋川伊香保インターが見えてきた。
「おお、なんか都会だ」
白と灰色をベースに様々な差し色が加えられた街並みを見渡す。やはり「北」とつけども関東圏、街としてはそこそこの規模があるのだろう。
空は青空。
雨の予報が嘘のようだ。
我が家の「晴れ女」が調子に乗っているが、それは聞き流す事にした。
高速道路を下りてナビに従い山を登る。
温泉街の手前まで来ると、予約時に指示されたとおり宿に電話をかけ、道案内の車が停まっている駐車場に誘導された。そこからはその車の後ろを付いて温泉街の市営駐車場に向かう。
石段の温泉街だけあってそこら中が坂だらけである。
雰囲気はいいのだが、車で走るにはかなり難儀だ。
市営駐車場に車を停め、ここからは道案内をしてくれた車に乗り込み宿に向かった。
大型のワンボックスが狭くて勾配が急な温泉街を縦横無尽に走りまわり、自分はただただその運転技術に舌を巻いていた。
そして幕田家一行は宿に着いたのだった。

宿はけっこう古い佇まいだが料理や立地には定評があった(じゃらん口コミ曰く)。
確かに宿を出て数歩行くと石段のちょうど中心部に出るため、温泉街観光には適している。息子がまだ2歳半なのでこういう立地は非常に好都合だ。
部屋は12畳のトイレ洗面台つき。
到着時(15時)には既に布団が敷いてあった。
いや布団敷く早くね? と思ったが、一応部屋の半分はくつろぎスペースとして機能しているし、普通旅館でよくある『客が夕食を食べている間に布団を敷く』システムがない分、抑えられた人件費がこのお手頃価格に反映されているのだと思うと、仕方ないのかもしれない

そして特筆すべきは窓際にある謎空間(広縁というらしい)。
木造の窓枠部分は非常に味があって、うっとり外を眺めたい気分になる。
意図してそう作ったのではなく、長い歴史の雫がいくつも滴り落ちた末に出来上がった、時間の生み出す深い味わい。

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部屋の細部を精査してしまうと確かに汚れや古さが目立つのだが、全体をみればその古臭さも独特の雰囲気として楽しめる。

今晩はこの広縁の椅子に腰掛け、持参した『絡新婦の理』(妻には重石と言われた)を読もうと思う。
時間と体力的な余裕があればだけど。


マンガ

絵が上手ければ、マンガを描いてみたいなと思う。
かといって絵を描くために努力する気はあまりない。
小説でも十分事足りているような気もする。

似顔絵を描くのはけっこう好きなので、自分の家族を描いてみた。

似顔絵家族

ただ、好きってだけで似てるかどうかは別問題。

大学時代はアパートがマンガで埋まっていた。某古本チェーン店でバイトしていたため易く購入できた事も一因ではある。

一人暮らしではなくなってからは、本がかさばるためもっぱらレンタルで読んでいた。しかし最近ではそれもやめて、節約のためにLINEの無料マンガみたいなのだけ読んでいる。

唯一、寄生獣と、鋼の錬金術師と、すごいよマサルさんと、福満しげゆきの生活と、コンビニ本のジョジョだけは本棚に残してある。
なんとなく、読み返す頻度が高いからだ。

たまには一日中のんびりとマンガを読んで過ごしたいものだ。


創作の目的、みたいな

どんびき27話の中で登場人物の一人の創作目的について述べた。

実際、学生時代の自分は「自分自身の欲求不満を解消するはけ口」として創作をしていたと記憶している。

敢えて情けない言葉で表すと「リア充どもめ爆発しろ、お前らみたいな幸せ者にコミュ障ダメ人間の気持ちがわかるか、くそったれ妬ましい!」と言った感情が「ぼくのかんがえたさいきょうのさくひん」を通して具現化されていたんだと思う。

あの頃から自分はどれだけ変わっただろうか。

H君と創作のモチベーションについて話したとき、彼の考えに共感を覚えつつも、どこかその域まで達していない自分を自覚していた。
どんびき作品内の言葉と関連付けて言うなら、自分にはまだ他人に分け与えるべき喜びや悲しみといった「経験」が足りていないんだと思う。

そしてそれが経験値として溜まった時、もっと素晴らしい、他人に与えるに値する作品を作れる様ような気がしている。

H君やO君は、日常の中の些細な風景やちょっとした情報を深く掘り下げ、それによって産み出される思想や感情を自分の経験地として溜め込んでいる。

自分は彼らの出す甘露の美味しそうに舐めるアリンコみたいなポジションだが、いずれ肩を並べるようになりたいな、と考えている。

どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~27

第27話「男子大学生狂乱之夜」

「おーい、言われたとおり酒買ってきたけど……つーかお前大丈夫か?」
鍵を開けっ放しの玄関をガチャガチャ言わせて入ってきた正方寺が、既に酒でベロベロになっている僕の姿を見て呆れたように言った。

夏休みも終わり、大学も後期行程がスタートした。講義だレポートだと忙しい日々が再び始まったわけだけど、僕の心はそれどころじゃなかった。学祭に向けて曲作りに邁進すべきところなのに、心が乱されスランプ状態に陥っている。
全ては、あの8月末のイベントの夜からだ。
「ああ、ありがとう」僕は正方寺の手からレシートをもらってお金を支払うと、缶ビールを一本正方寺の前に置いた「まぁ飲んで飲んで」
「最近様子が変だと思ってたけど、何事だよ」正方寺は漫画や本や音楽雑誌が積み上げられた部屋の中で、壁沿いに設けられた何も置かれていない一角に座る。いつも正方寺が座っている特等席だ。
「曲が、作れないんだ」僕はビールのプルタブを開けると一気に飲み干した。そして酔いにまかせて手元の作曲ノート(丸秘)を正方寺に投げる「最後の方が最近書いた詞なんだけど――」
「えー何々?」正方寺がパラパラとノートを捲る。

君の笑顔は太陽だ
君と2人で夏の海辺を走りたいぜ
かわいい君へ アイ・ラブ・ユー

正方寺が目を見開いて僕を見た。僕は恥ずかしさをビールの苦味で誤魔化し頷いた。正方寺は更にページを捲る。

君の吐息で僕の心が溶けていく
僕は君を守りたい
君を傷つける全てのものから僕が守ってみせる

唖然と口を開けた正方寺。僕はつまみのあたりめを数本わしづかみにして口に放り込む。正方寺は更にページを捲る。

君の唇にキスをしたい
君の細い体をギュッと抱きしめたい
君のすてきなおっぱいを――

「おいおいさすがにこれはダメだろお前!」正方寺が作曲ノートを床に置く「やっぱりどっかおかしいぞ? 大丈夫か?」
「三曲目は昨日酒でべろべろになった時に書いた曲で――」半笑いで呟いた言い訳は煙みたいに虚しく宙を漂い消えた。
「っていうか、こんな恥ずかしい曲、俺らが歌っても様にならないだろ」いやいや、僕はまだしも正方寺なら十分様になるのではなかろうか。女性達は彼の歌が紡ぐ甘い言葉にきっと卒倒するはずだ。
でも、正方寺が言うように、僕はどこかおかしくなっている。
全てはあの8月末のイベントの夜からだ!
「なあ、正方寺、僕は今から重大な発表をする」手に持った缶ビールの空き缶をぺこぺこ凹ませながら、僕は大きく深呼吸した。この言葉を言ってしまったら、弾き語り部門の関係に変化が生じるかもしれない。それはいい変化だけではなく、悪い変化の可能性だって当然ある。でも僕は現状を打破するため言わずにいられなかった。
「僕は、金谷ひまりさんの事が好き、なんだと思う」
「ふーん、知ってるけど」
「は!? 誰にも言ってないのになんで知ってるの!?」
「だってバレバレだから。俺と清里さんと杉田先輩は知ってる。でも金谷さんは多分気づいてないんだろうな、なんかそのへん鈍そうだから。あ、五智先輩は多分知らない、ってか色恋沙汰に興味ない」
「そ、そうだったのか」僕は恥ずかしさに頭を抱えて転げまわりたくなった。みんなは僕がひまりさんに気があることを知った上で、僕の行動を見ていたんだ。僕がひまりさんにちょくちょく話しかけているのを、生温かい目で見ていたに違いない。
正方寺が買ってきた日本酒をグラスに注ぎ、飲み干す。
「まぁ、それは周知の事実だからいいとして、それが今のスランプにどう繋がるんだよ。好きだからって言ったってそれは前々からの話で、今急にスランプになる原因とはいえないだろ」
「それは――」僕は口ごもる。次に続けようとしている言葉はややもすると正方寺から『自意識過剰の痛い奴』のレッテルを貼られるかもしれない禁断の言葉だ。でもこれを話さずには問題の根底にはたどり着けない。それに、さっきの詞を見られてしまった今となっては、僕に守るべきプライドなんてものは存在しないに等しい。
僕は日本酒臭い息とともに言った。

「もしかして、金谷さんも、僕のことが好きなのかもしれない」

「は?」正方寺は目を見開く「えー、うーん、そうなのか?」眉間を親指で押さえて考え「そう思うには、何か根拠があるんだよな」
「うん、僕の自意識過剰かもしれないけど――」そう前置きして、僕はこの前のイベントについて話した。
花火を見上げる2人。
不意にひまりさんの口からこぼれるラブソング。
そして2人は見つあう。
花火の光が、ひまりさんの横顔を赤く染める。
「ああ、かわいいよひまりさん」
「おい、妄想が声に出てるぞ」正方寺に窘められる「ってかお前、心の中では金谷さんを下の名前で呼んでるのな」
「ああそうだよ、悪いか!」もはや開き直るほか無い。酔いが悪い方に全てを後押しする「それでどう思う? これってあっちも僕に気があるんじゃないかな?」
「いや、お前の主観的観測だけじゃなんとも言えないけど」正方寺は首を傾げる「嫌われてはいない、って事だけは確かなんじゃね」当たり障りない返答だった。
「まあ確かに」そこでもう一つのエピソードを思い出す「あ、それと合宿の野外フェスの時は手を繋がれた」
「おお、でも、そういうスキンシップしてくる女ってけっこう多いから、いい気になってバカを見る男も多いらしいぞ」
「そうだよね」これ以上論ずるにも判断材料となるデータが乏しい。こういった議論はえてして尻すぼみで終わる。正方寺はここで始めてビールのプルタブをあけ、一口飲んだ。
僕はあたりめを三切れ口に放り込んだ。
正方寺はまだ眉間に手を当てて考え事をしている。
「要するにだ」正方寺が口を開く「金谷さんが自分の事を好きなんじゃないか、って考えると気持ちが舞い上がってしまって、全然曲が作れないと」
「うん、多分そういうことかと」僕は俯く。
「気持ちは分からんでもないけど」正方寺は壁にだらしなく寄りかかって、また一口ビールを飲んだ。酒に弱い正方寺はさっきの一口で既に酔いが回り始めているのかもしれない「それで曲が作れないってのはどうかな。もし仮に両思いだったとして、そしたら更に舞い上がってしまって、曲なんか手に付かなくなるんじゃないか?」
「うーん」僕は考え込んでします。
「なぁ、これは俺の持論だから、間違っていたら違うといってくれていい」そう前置きして正方寺は持論を語り始める「人にとって創作の目的やエネルギー源って全然違うと思うんだけど、平らの場合それって『焦燥感』なんじゃないか? もっと言うと『今の自分から変わらなければならない』って感情と『こうなりたい、こうしたい』っていう感情というか。俗っぽい言葉で言うと『リア充うらやましい、僕もそうなりたい』みたいな」
正方寺の言葉に僕は半信半疑で頷く。
「そういう感情が、平の作る詞には多分に含まれてると思う。だからなんだか、地面を這いつくばってでも前を睨んで前進して行く傷だらけの兵士みたいな、なんかそういう不恰好だけど鋭く尖った言葉が生れてきてたと思うんだよな。さっき見た詞にはそれが全然ない。温泉につかって自分磨きに勤しんでいる24歳OLみたいなのほほんとした雰囲気しか感じられない」
それは、確かにそうなのかもしれない。
「俺も、平が金谷さんと両想いだったらいいなと思う。応援したいと思う。でも俺はそこで平に満足して欲しくはないんだよな。もっとあるだろ、やりたいことや、目指したい目標ってやつ。女と付き合ったとして、その先にあるものってなんだ? それだけでお前の人生が完結するわけじゃないだろ。恋愛は人生の一部であって、全てじゃない。弾き語り部門の活動だってそうだ」
「まあ、ね」僕はそう一言だけ呟いた。
「平は器用な人間じゃないから、目の前の事で一杯いっぱいなのかもしれない。でもそれで今回の学園祭ライブ――先輩たちと演れる最後のライブが不本意なものに終わったら、多分平は後悔すると思うんだよな。だから、柄じゃないけど、忠告まがいの事を言わせてもらったよ」
「いや、確かにそうだ」正方寺の言葉の中には僕の心に突き刺さるフレーズが幾つもあった「僕の創作には、何か人のためになろうとか、誰かを元気付けようとか、そういう動機は一切無いんだと思う。ただ自分のために、自分の欲求不満な叫び声を歌にしているだけだ。でも今はそれでいいんだと思う。それが今、僕が表現したいことだから」
僕は今自分が何を唄いたいのかを考えた。
ひまりさんとの事、誰かと心が通じ合った幸せをみんなと分かち合いたい、そういう気持ちも確かにある。
でもそこで満足するには、僕は未熟すぎる。
自分の音楽や思想、自分自身に対して感じている足りない部品の数々を一つ一つ摘み上げて数えて行くような唄が、今の僕に性に合っているような気がした。
未来に対する不安と、それでもふと見下ろした足元に散らばっている小さな希望を唄った歌の方が、今の僕の等身大の歌だから。
「酔いが覚めた」僕は作曲ノートを取り上げた「やりたい事を一つずつやり遂げていって、カバンの中に喜びや悲しみが溜まってきたら、その時に改めて、みんなのための曲を歌えばいいんだよな」
「多分ね」正方寺はビールをもう一口飲んだ。
「よし、もう一回書いてみる」僕はペンを持った。
「あんまり無理するなよ」正方寺が言った。


プロフィール

幕田卓馬

Author:幕田卓馬
糖、脂質、プリン体、塩分などに気を配らないといけない歳になりました…若い頃の不摂生が原因でしょうか。まだ三十路、されど三十路!
そんな男が日々の合間に小説を書いています。

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