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どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~26

第26話「夏の終わりの歌(後編)」 ※3/8加筆

ピックが弦を弾くと同時に、予想を外れた鋭い音が鳴る。
視線をギターに向けると、テンションから解放された3弦が枯れた植物の茎のように力なくブリッジから垂れ下がっているのが見えた。
ギターの弦が切れた。
私――金谷ひまりは、毛先が乱れた筆で固まりかけの油絵の具を塗りつけるような、そんな乱雑で暴力的な焦燥の感情によって、頭の中が真っ白に染まっていくのを感じた。使用頻度の高い3弦が切れてしまったら、この先のギターソロは音楽の体をなさない雑音へと変わってしまう。何とかしなければならないのに、混乱の泥沼に突き落とされた思考の速度は、苛立つほどに鈍くて重たい。ただただ焦りだけが冷や汗となりこめかみから流れ落ちる。
ああ、音が止まる。
一度音が止まれば、音楽は死んでしまう。
音楽が死んでしまったら、この音楽に勇気をもらっているはずの茜ちゃんはどうなるのか。
私は所在なく立ち尽くし、茜ちゃんいるがはずの群集を空っぽの目で見た。彼女はどんな顔をしているだろう。もしこの曲が失敗に終わったら、茜ちゃんの気持ちは、再び暗い箱の中に再び閉じ込められてしまうのだろうか。
私にはこの音楽を生かし続けなければならない責任がある。
責任があるはずなのに、私は何も出来ずにただ立ち尽くしている。
私は、なんて無力なんだろう。
誰か助けて。

助けて――

無意識に珠美ちゃんを見ていた。
珠美ちゃんもまた、困惑の表情を見せている。

でも、私の顔を見た珠美ちゃんは、力強く頷いた。

メロディーが流れ始めた。
2つの異なるキーボードの旋律によって、力無く地面に倒れ込んでいた音符達が立ち上がり、再び空を舞い始める。
珠美ちゃんは即興で、ギターパートのメロディーとキーボードパートの伴奏を同時に弾いていた。10本の指がそれぞれ別の生き物であるかのように鍵盤の上を飛び回る。
音楽は再び立ち上がろうとしている。
珠美ちゃん。
胸の奥から湧き上がってくる言葉にならない感情に包まれて、私は珠美ちゃんの名前を大声で叫びだしたい衝動に駆られた。不安と焦りが、感謝と感動に昇華されて行く過程で起こる、泣き笑いみたいな感情だった。
そうだ。
こんなふうに、珠美ちゃんはいつも私を助けてくれていた。
珠美ちゃんのピアノは、ピアノをただ楽譜通りに弾く事しか出来ない機械のような私に、人の発想力と創造力に基づいた自由な音楽の姿を見せてくれた。
ピアノを正確に弾くこと、ただそれだけに囚われ楽しさを失いかけていた私を奮い立たせてくれたのは、この陽にあてた毛布のように柔らかく――時につっかえながらも自分の色を表現しようともがいている、とても温かな音色だった。

そうだ。
そんな珠美ちゃんのピアノに、私は憧れていたんだ。

「ひまり!」マイクを通さない珠美ちゃんの声が私の名前を呼んだ。
放心状態だった私は、その声で自分の今立たされている状況を再認識する。群集を見渡すと皆一様に不安そうな、しかし何か期待を込めた目で私たちを見ているような気がした。
「ひまり、来い!」再び珠美ちゃんが叫ぶ。
その間も両手の指はせわしなく鍵盤を叩いているが、額には玉のような汗が浮かびスポットライトを反射していた。今珠美ちゃんは、頭の中で2つの楽器を鍵盤一つに編曲しながら弾いている。そんな芸当、私には絶対に出来ない。
私はギターを床に置くと、マイクスタンドを片手にキーボードの方に走った。
珠美ちゃんの隣に並び、私もまた鍵盤に指を這わせる。
鍵盤を前にして並ぶ私と珠美ちゃん。
懐かしい感覚に私の胸は高鳴った。
あの頃の私はピアノの技術を磨く事にいっぱいいっぱいになっていた。その隣でただ『技術がほんの少し満たない』だけの珠美ちゃんの気持ちを省みる余裕があったなら、今でもまだ2人で普通にピアノを弾いていたかもしれない、そう思うとほんの少し切ない気持ちがこみ上げてきた。
私は珠美ちゃんのピアノが好きだったし、尊敬している。その気持ちをもっと早く伝える事が出来ていたなら――ううん、そんな過去はどうだっていい。
今でも私たちは2人で音楽をやっている。
そして今この時、再び2人で鍵盤の前に並ぶ事が出来た。
それでいいんだと思う。
「ギターパートは頼んだ」珠美ちゃんはそう言って口元だけで笑った。
「わかった」私は頷く。
音楽が、再び息を吹き返した。

・・・・・・・・

・・・・・

・・・

ステージの階段を下りると、そこには今日の演奏を身に駆けつけてくれた弾き語り部門のみんながいた。
「タマ、お前すげーな! 咄嗟にあんだけのアレンジが出来るなんて!」堅あげポテトとビールを両手に持った杉田先輩が、肩で珠美ちゃんの肩を小突く。
「いや、けっこう疲れました。頭がボーっとしてます」気が抜けた表情の珠美ちゃん。でもその姿がなんだか誇らしかった。
「ごめんね珠美ちゃん。ありがとう」私は頭を下げる。
「いやいや、いーよ。あたしもなんていうか、借りを返せた気分だし」のぼせたような目でニヤリと笑う。借り、って何のことなのか私にはぴんと来なかったけど、それは後で聞いてみることにしよう。
「ひまりー、たまみー、疲れー!」そこにイベントTシャツを着た桜ちゃんが両手を振って駆け寄ってきた。
「あ、私、この2人の友達です」弾き語り部門のみんなに気付き軽く頭を下げると、私達の方へと向き直る「すごかったよ。感動した。特にあのギターからキーボードに切り替える演出とか、一瞬ハラハラしちゃったもん」
「あれは演出じゃないんだけどな」私は苦笑する。バイトで忙しくじっくりステージの動向を見ることが出来なかった桜ちゃんには、あの一連のハプニングもそう聴こえていたのかもしれない。そこで私は一番の関心事を口にする「それで、茜ちゃんは――」
私の言葉を待っていたかのように、桜ちゃんは悪戯っぽい笑みを浮かべ、親指で後ろをちょちょいと指し示す。
桜ちゃんの肩越し、遠くの木の下に大小二つの影が並んでいた。
小さい方の影は肩を震わせているように見える。
ダメだったのかな――不安が過ぎる。
しかし2人の手は、しっかりと握られていた。
「オッケーもらえったっぽい」桜ちゃんは白い歯を見せて笑った。
「よかったー」私と珠美ちゃんは同時に安堵の溜息をつく。
「ミッションコンプリート、ってかんじ?」珠美ちゃんが私の方を向いて右手を上げる。その意図に気付いて私も右手を上げた。
「コンプリート!」
2つの手が合わさり、軽快な音を響かせた。

茜ちゃんと彼氏さんは、それぞれ演奏の感想とお礼の言葉を述べて、会場内の散策に戻っていった。幸せにとろけた2人の顔を屋外照明が映し出していた。生み出された陰影によって誇張されたその表情は、多分この会場で最も幸せに見えた違いない。
歩調を合わせながら遠ざかって行く後姿に、私は自分と平君の姿を重ねていた。
それは紛れもない自分自身の願望だ。
気付いていたけど、気付かないふりをしていた、私の気持ちだ。
「珠美ちゃん、私ね――」隣に立っている珠美ちゃんの方を見て、驚く。
いつの間にか、珠美ちゃんが平君に変わっていた。
「なんか、清里さんが、正方寺と屋台を見て回るとかで、金谷さんをよろしくって」困惑した様子の平君。
後方を振り返ると、珠美ちゃんはこっちを見ながら親指を立てていた。
なんだ。
やっぱり、珠美ちゃんは私の気持ちに気付いていたんだ。
ついさっき見つけた自身の大発見を親友はとっくに知っていた。その事にほんの少し気恥ずかしさを覚えた。
「清里さんから今回のライブの目的を聞いたよ」平君が言う「金谷さんの友達、上手くいったみたいでよかったね」
「うん」私は頷く。
「演奏もすごくよかった。清里さんとキーボードを弾いている金谷さん、すごく楽しそうだったよ」野外照明を背にした平君の表情はよく伺えない。でもどんな顔で今の言葉を口にしたのか、私には何となく想像できる。
「鍵盤を弾くのがあんなに楽しいと感じたのは、すっごく久しぶりかもしれない」珠美ちゃんが私と一緒にピアノを弾かなくなって以来、忘れかけていた感情だった。
「金谷さんと清里さんは、いいデュオだと思うよ。お互いがお互いを補い合ってるっていうか」
「私もそう思う!」私は力強く言い切った。
普段なら『そ、そうかな?』と照れ笑いを浮かべるであろう私の反応の違いに、平君は一瞬だけ面くらい、でもすぐに優しい顔で頷いた。

その時――空が一瞬明るくなり、ほんの少し遅れて大きな破裂音が響いた。

「あ、花火だ」平君がぼそっと呟く。
「ほんとだ」イベントの最後に打ち上げ花火が上がることを、桜ちゃんから聞いてはいたけれど今の今まですっかり忘れていた。
夜空に亀裂が走るように、光の玉が尾を引きながら空へと上っていき、次の瞬間、夜空の切れ目から色鮮やかな光が弾ける。
この世界を――自分自身の殻を打ち砕くような、そんな光の爆発。
そして、はじけた光の粒たちは再び夜空へ吸い込まれていき、時間がゆっくりと巻き戻っるように再び静寂の時間が訪れる。
誰もが夏の夜空が見せる最後の輝きを眺めていた。
今まで私は何度花火を見ただろう。
いつも空を覆う光の花を見上げながら、花火の壮大さ華麗さとは対照的に、何か言葉に言い表せない寂しさもほんの少しだけ感じていた気がする。
その寂しさを埋めてくれるのは、家族や友達、では無いのかもしれない。
隣に一緒に花火を見上げてくれる平君の存在を感じながら、その答えが分かったような気がした。
花火の音が心の皮膜を振るわせ、小さく開いた裂け目から感情が溢れてくるのを感じた。
でもその感情を伝える言葉を持たない私は、さっきステージの上で唄った歌詞に乗せて呟いた。

それは、友達関係からその先への一歩を踏み出そうとする女子の心を唄った歌。

音楽には程遠い、囁きのような歌だった。
私は唄いながら平君を見る。
いつの間にかこちらを見ていた平君と目が合った。
恥ずかしさで目を逸らしたくなる。でも、私はそのまま平君の目を見続けた。自分の気持ちから逃げちゃいけない、そう思ったから。

歌が終わる。
花火はまだ終わらない。



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どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~25

第25話「夏の終わりの歌(前編)」※2月21日一部加筆修正

幼いあたしは泣いていた。
『ひまり、ごめん』
あれはひまりのおばあちゃんの誕生日だった。
体調を崩して入院していたおばあちゃんが一時的に帰宅の許可をもらった。おばあちゃんへの誕生日プレゼントとして、ひまりとあたしはピアノの演奏を送ろうと思っていた。
その演奏で、あたしはミスをした。
一回のミスが指をこわばらせ、新たなミスを生む。
何度もやり直したけれど満足のいく演奏が出来た曲はひとつもなかった。
『2人とも上手になったね』
ひまりのおばあちゃんはそう言ってくれた。
おばあちゃんが病院に戻ったあと、あたしはひまりに謝った。
せっかく入院中のおばあちゃんに演奏を聴かせてあげられるチャンスだったのに、自分のミスがそれを台無しにしてしまった事を考えると、涙が止め処なく溢れてきた。
『なんであやまるの? 一緒に弾いてくれてありがとう』
ひまりはそう言ってくれた。
ひまりの性格から、それが本心である事は十分に理解している。
でも、その言葉を素直に受け止められない自分がいた。

おばあちゃんに演奏を聴いてもらえたのは、それが最後だった。
多分あれが、あたしのピアノに対する感情を錆付かせていく最初のきっかけだったのかもしれない。

「2人ともお願い!」高校時代の友人である桜が言った「今度のイベントで演奏をお願いしたいの!」

夏休みともなると友人と会う機会も自然と増す。
高校時代の友人――桜と茜、それにあたしとひまりの4人は、近所のファミレスで甘いものを食べながら近況報告と思い出話に花を咲かせていた。そんな中、突然桜があたしとひまりに両手を合わせてきたもんだから、あたしは『どんな面倒をい押し付けられるやら』と表情を曇らせた。

桜の話の内容を要約するとこんな感じだ。
今度桜のバイトする施設で夏祭り的なイベントを開催するらしい。夏の終わりの定番となっている某番組のチャリティーイベントと絡んでいるため、けっこう大々的なものになるらしい。アマチュアバンドのライブ演奏もあるらしく数組の参加が決定しているが、その中の一組が怪我のため急遽出演を取りやめたらしく、その穴を埋めるためにあたしたち2人に声をかけたらしい。
「無理にとはいわないけどさ」桜は言うが、目からはお願いへの本気度が伺える。
あたしの隣ではひまりが唖然としている。こいつの性格を考えると、これ以上強気でせまられると『わかった、私たちにまかせてよ』とか安請け合いしそうな気がする。
これはあたしが早急かつ冷静に対処すべき案件と思われる。
「やるやらないは別にして」あたしはオレンジジュースのコップに立てられたストローの端を指先で弄ぶ「こう言っちゃなんだけど、アマチュアバンドのライブなんて代打が必要なほどのものでもないような気がするけどな。他のバンドの曲数を1、2曲増やせば、時間の辻褄も合わせられるだろうし、その方が現実的じゃねーの?」
隣でひまりが『たしかに』みたいに頷いている。危ないところだった。

「それには深いわけがあって――」桜は隣に座る茜を見る。
イベント演奏の話になってから無言だった茜がここに来てゆっくりと口を開く「桜ちゃんがお願いしているのは、実は私のためなの」

茜の話の内容を要約するとこんな感じだった。
茜には今気になる男がいるらしく、今度のイベントに初めて2人きりで出掛ける約束を取り付けたらしい。このチャンスに自分の想いを伝えたい、茜はそう考えていた。そして偶然にも夜のライブイベントの曲目の中に『にゃこ禅』の『拝啓、トモダチ殿』があったのだ。トモダチ関係からその先への一歩を踏み出そうとする女子の心を歌ったこの曲は、茜の大好きな曲で今の茜の立場にもマッチしている。この曲の力を借りて告白を――と考えていたのだが、急遽演奏予定だったバンドが出場を取りやめてしまった。
途方に暮れていた2人だったが、今日あたしたちに会って、あたしたち2人が最近にゃこ禅の曲を中心に音楽活動をしていることを知った。ダメもとでお願いしてみよう、そういう事らしい。

「『拝啓、トモダチ殿』、いい曲だよね」ひまりが呟く。

「私に勇気が足りないから悪いの。だから無理にお願いするつもりはないよ。ごめんね、こんな無茶なお願いしちゃって。忘れてくれていいから。そういえばこの前――」

「ううん、やるよ!」申し訳なさそうに話題を変える茜の声を、ひまりの力強い言葉が遮った「私も茜ちゃんの恋を応援したい!」
うわーやっぱりはじまった、とあたしは思う。
でもさっきの話を聞いた後では、無下に断るのも後味が悪い。そりゃあたしだって茜の恋を応援してあげたいって気持ちは当然ある。
「珠美ちゃんはどう思う? いいよね」ひまりが目を輝かせている。こうなってしまうと手をつけられない事は長い付き合いなので分かっている。
「ああ、そんなに面倒な曲でもないし、あたしは問題ない」そう答えるほかない。
ひまりは基本的にお人好しだが、考えなしに突っ走る傾向があるからたちが悪い。そのしわ寄せは大体あたしに来るわけだけど、今更そんなことはもう慣れっこだ。
いつも2人でつるんでるわけだから一蓮托生の覚悟はとうに出来ている。

それに――
今日のひまりの反応は、いつもの『誰かのため』だけではないような気がした。
多分、ひまりは、自分と茜を重ねている。

この前の合宿で分かった事がある。
多分ひまりは、平にただの男友達以上の感情を持っている。
そして、その感情が恋というものであることを、ひまり自身は理解していない。
いや、理解はしていても、それを認めたくないのかもしれない。その感情を認めてしまう事が自分たちの関係を壊すきっかけになるのではないか、そんな恐怖心がひまりの心に蓋をしている。でもそれはすごくキツイ事だ。
茜の件は、ひまり自身の抱えている問題と重なり合っている。
茜の願いを叶えることが、そのまま自分自身の希望へと繋がる。
多分ひまり自身はそんなところまで考えてはいない。でも無意識のうちに、この恋の――そして自分の恋の幸せな結末を見たいと願っている。

ファミレスで桜や茜と分かれ、夕焼けの商店街を2人で歩く。
あたしは、今度こそひまりの願いを叶えてあげたいと思った。
茜の恋の成就をひまりに見せてやる事で、今ひまりの心に括り付けられている重石を取り除き、日の光が揺らぐ水面へと浮かび上がらせてやりたいと思った。
あの日、おばあちゃんに素晴らしい演奏を聴かせてあげたいという願いを前にして、あたしはひまりの足を引っ張ってしまった。
今度こそ、願いを叶えて見せる。
親友のために。
そして、自分自身がもう一度素直にピアノと向き合うために。
「なに難しい顔してるの?」隣を歩くひまりが、小首を傾げて尋ねる。
「いや別に」
風が吹いた。
考え込んで火照った頭には心地よい、秋の匂いを含んだ風だった。
「茜、好きな人と付き合えるといいな」あたしは言う。
「そうだね」ひまりは遠い目をする。
「いや、きっと大丈夫」あたしは力強い笑みを作る「あたしらの演奏を聴けば、絶対にいい感じになるはずだ」
「うんっ」ひまりは頷いた。

そして、イベント当日。

照明を受けたステージは、消える寸前のろうそくのように激しく燃えていた。
過ぎ行く夏を惜しむ人々の感情を燃料にして、夏の残り火が最後の火柱を上げているようだった。

あたしは額の汗を拭いステージを見上げる観客を一望する。
その中には弾き語り部門の面々もいた。
ステージのすぐ側では、あたしの視線に気付いた桜が小さく手を振る。
群集から少し離れたところに、茜らしき人影が背の高い人影と並んで立っている。あの位置では2人の表情を読み取る事は出来ない。

ステージに上がる前はガチガチに緊張していたひまりだったけど、2曲目を演奏し終えた今となっては肩の力が適度に抜けて、その顔には笑みさえ浮かんでいる。
あたしも、ひまりも、演奏の成功を半ば確信していた。
最後の曲である『拝啓、トモダチ殿』はギターを始めた当初からひまりがずっと練習してきた曲の一つだ。
今回のイベントに備え2人でのセッションも万全だった。
今までで最高の演奏をする自信がある。
遠くに見える茜が、今どんな顔であたしたちの演奏を聴いているかはわからない。でも最後の演奏が茜に届けば、きっとあいつは震える唇を噛みしめて、隣に立つ好きな男へ自分の気持ちを伝える事が出来るだろう。

「最後の曲は、拝啓、トモダチ殿、です」

ひまりがマイクに向かってそう告げて、あたしの方を見た。
あたしは無言で頷く。
キーボードが鳴り、ギターのアルペジオが重なる。
最初はゆっくり、流れるようなメロディーで。
サビは力強いストロークで、感情を搾り出すように声を響かせる。
1番を順調に歌い終え、間奏に差し掛かる。
ひまりのギターソロ部分だ。

そのとき、何かがはじけるような音がした。

それが何の音なのか、最初あたしは分からなかった。
ただ不吉な音だという事だけはわかった。

あたしはひまりを見る。

ひまりは唖然とした様子でギターを見下ろしている。

『弦が、切れた』

あたしは直感した。

どんな状況なのか、私の位置からは見えない。
しかしひまりの手が止まったことで、ギター演奏が続行不可能なのだということだけは分かった。

ひまりがあたしの方を見る。

その目には戸惑いと――絶望が、あった。

あたしは頷く。
今度こそあたしは、ひまりの願いを叶える。

『あたしに任せろ』

演奏が途切れ騒然とする会場へ、キーボードの音が再び響く。

ひまりのギターパートと自分の鍵盤パート――

あたしの10本の指先は、その異なる2つのメロディーを奏で始める。


No.17 ハグモの一種(ネコハグモ?)

冬の間にも虫はいる。

僕のボロアパートにはワラジムシが侵入し嫁を驚かせている。

気温が上がった日には雪上をガガンボが飛んでいたりして、冬だといっても生き物は死に絶えたわけじゃないんだなと実感させられる。

雪の上ではしゃぐ子供を見ていると、アパートの外壁に1匹のクモが取り付いているのを発見した。

ハグモ

ハグモ科の一種、おそらくネコハグモだろうか。
通年見ることの出来る普通のクモである。

冬は糸の中に隠れているが、温かい日などは抜け出して徘徊するらしい。

人も虫も、温かい春が待ち遠しいのだ。

寒さも関係なく元気に走り回っていられるのは、風の子といわれる子供くらいだ。

雪と息子


どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~24

第24話「男子大学生の欲望」

「やっぱり女っておっぱいだよな」新井が言った。
「いや、お前はわかっとらん。尻でしょ尻」谷浜が握り締めた箸を天井に向ける「あれこそ神の与えた至高の造形美よ」
「尻は男にもあるじゃん」新井が谷浜の発言を鼻で笑う。
「ばっか、お前丸みが全然違うじゃん、分かってねーなー。女性の尻にはやさしさが詰まってるんだよ」谷浜はムキになって反論する。
「おっぱいの方がやさしさ1.5倍増量中だろうが」新井は冷静に自分の意見を押し通す「なぁ平はどう思うよ?」
「え、僕はさ」少し考えた末に「やっぱり女性は性格だと思うんだけど」
「あーあーすまん」新井は心底申し訳なさそうに首を振る「彼女のいない平にはまだ早い話だったな」
「新井、そこで平に話を振るなんて、ゲスの極みだろ」谷浜が僕に哀れみの目を向ける。
「変に気を使わなくていいから!」僕は叫んだ。

僕はお盆を利用して鈍行列車3時間ほどの地元に帰ってきていた。
そしてその旨を伝えていた高校の友人2人と飲むことになった。
新井は背の高いしっかりもので僕たち3人のまとめ役といったところだ。県内の大学に通っていて、高校時代から付き合っている彼女とは今も続いているらしい。
谷浜は高校時代さえないゲーム・アニメオタクだったのだが、都内の大学に入ってからオサレ野郎に転身した。大学で彼女が出来たらしいが、二次元に対する愛も忘れてはいないらしい。
そして僕――平均は隣県の大学に進学し、高校時代からやっていたアコースティックギターを続けている。ちなみに彼女いない暦=年齢。

現在の時刻は20時を回ったところ。
まだ宵の口だが18時から飲み始めているためけっこういい感じに酒が回っている。そしてそうなってくると話題が下のほうにシフトしていくのも、若い男なら仕方ないのだろうか。
「最近木田さんとはどうなんだ?」谷浜が新井に尋ねる。木田さんは新井の高校時代からの彼女で僕たちのクラスメイトでもあった。
「いや、最近マンネリっていうか、××のとき××が××でさ。だからたまに××をしたりするんだけど全然××だから、なんかねぇ」新井がとんでもない事を言い出す。
「俺の彼女も最近××だけど、めちゃくちゃ××で、この前なんか××で××するもんだから、俺も××しちゃったよ」谷浜もとんでもない返答を返す。
僕には雑誌やパソコンの液晶画面で目にしたことしかないような単語が、友人2人の口から放たれている。僕は混乱した。
「そういう時は××するとめちゃくちゃ××するから、彼女も喜ぶと思うぞ」そこで新井はこちらを向き「あ、ごめん、平には刺激が強かったな」
「すまない、俺たちリア充にもリア充なりの悩みがあってさ……」谷浜が申し訳なさそうに、しかしわざとらしく頭を下げている。うるせーよ、お前だって高校時代は全然モテなくて彼女欲しいってぼやいてたくせに!

「そうだ」新井が何かを思いついたらしい「今日俺の彼女も近くの飲み屋で友達2人と飲んでるらしいから、ちょっと誘ってみるか?」またとんでもない事を言い出す。
「おおいいね、合コンみたいな」谷浜、お前彼女いるのにその発言はありなのかよ。
「友達2人はフリーらしいから、平の事気に入ってくれるかもよ」そんなのありがた迷惑だよ「んじゃ電話してみる」僕の意見は無視かい。

しばらくすると女性3人組がやってきた。先頭の女性が新井を見つけて手を振る。新井も軽く手を上げて応えた。
「あ、谷浜くん久しぶり! まだアニメ見てるの?」新井の彼女の木田さんは高校の時よりも綺麗になっている気がした。これが化粧の力というやつだろうか「それと、えっと、あの……」
「平です」僕は愛想笑いを浮かべる。
「あ、そうそう、平くんだよね!? 久しぶり…?」
高校時代も影が薄かった僕はこんなことで全然動じたりしない。だけど少しだけ涙が出そうになるのは何故だろう。
木田さんの友達も女子力高めな感じだった。量産型女子大生といった感じだろうか、皆一様に髪を茶色く染め、同じ様な髪型で似たような服を着て三人並んでいる。確かにみんな美人ではあるけれど、ひまりさんの方が全然魅力的に感じる。
それからは基本女3人と男2人で話が進んだ。

僕は無言でビールジョッキを傾けながら自分が泥沼みたいな酔いに沈み込んで行くのを感じていた。

斜め前に座っている木田さん。
高校時代もどこか垢抜けてはいたけれど、今も同い年とは思えないくらい大人びて見える。
いや、よく見ると新井や谷浜だって、高校時代とは見違えるくらい大人の雰囲気を醸し出しているような気がする。
さっきの新井の話が脳裏を過ぎる。
この2人は××したり××したりしているんだ。
この後も2人で夜の街に消えて、××するのだろうか。
僕には全然わからない、未知の世界の話だ。僕は彼らと同じ時を歩いてきたと思っていたのに、いつからか時空の歪みに引っ掛かってただ足踏みをしていただけなのかもしれない。
「えっと、平くんだっけ? 君ギター弾けるんでしょ? すごいねー」そこで急に話を振られて僕はドキッとする。木田さんの友人の一人が頬杖をついて僕を見ている。
「え、そんな、大したことないです」僕はしどろもどろで応える。
そこで沈黙。
話が続かない。
「あ、えっと、どんな音楽聴くの?」苦笑した友人さんが質問を変える。
「その、最近は『のざらし』を聴きますけど『ダケファブリック』とかもけっこう好きで、でもやっぱりアコースティックギターというと『かぼす』が一番だと思いますでも『かぼす』は初期の頃の歌詞の純朴さというか荒削り感が最近は薄れてきてしまっていて音楽としては完成されているんでしょうけどそういう荒削りな部分を好んでいた僕としてはうんたらかんたら――」
「あ、うんわかった。かぼすが好きなんだね」友人さんは話を遮って再度苦笑いを浮かべた。そして二度と僕に話を振らなかった。

ひまりさんは、と僕は思う。
ひまりさんはまとまらない僕の話をちゃんと聞いてくれた。
『もっと平くんの話を聞かせて』そう言ってくれた。
なんだか、すごく寂しい気持ちが湧き上がってくる。
ひまりさんに会いたい。

「おーい、もう女たちは帰ったぞ」新井の声で僕は目を開ける「あんだけ日本酒をがぶ飲みすりゃそうなるよな」
何が起こったのかよく分からないが、新井の話によると僕は日本酒をがぶ飲みし後テーブルに突っ伏して眠りこけていたらしい。
「あれ、谷浜は?」寝ぼけ眼で僕は尋ねる。
「ああ、彼女の声が聞きたくなったとかで先に帰ったわ。あいつもなんだかんだで彼女一筋なんだろうな」やれやれ、と新井は呟く。
時計の針は24時を回っていた。
閉店間際の店を出ると、生ぬるい外の空気が僕の目を覚まさせた。
酔い冷ましに自販機でペットボトルのミネラルウォーターを買い近くのガードレールに寄りかかった。
「なぁ平」新井が行きかう車を見ながら言う「『ひまりさん』って誰?」
「え、なんでその名前を」
「お前、寝言で何度も呟いてたぞ」ミネラルウォーターを一口飲む「彼女か?」
「ううん」僕を蓋を開けて3分の1を一気に流し込んだ。
「好きな人ってやつ?」
「まぁ、そういうところ」
「ふーん、なんか安心したわ」
「なんでさ」
「お前、女に対してどこか壁を作ってるところあるだろ。恐がっているっていうか」新井はペットボトルを右手でくしゃくしゃ潰す「だから、恐がらない女を見つけられたって知って、安心した」そう言ってこちらを向きニカッと笑う。
「そりゃどーも」そんな風に心配されてたことに僕はなんだか恥ずかしくなって、努めてつっけんどんに返す。
「一つ、アドバイスがある」新井はわざとらしく真剣な表情を作って僕を見る「お前、多分『今のままの関係が崩れるのが恐いから自分の気持ちは伝えずにおこう』とか思ってるだろ」
「うん、まぁ」そういう躊躇は確かにある。
「男女関係ってのは、一度『仲のいい友達』で固定されてしまったら、けっこうそこから抜け出せないもんだ。お前がそのひまりさんに友達以上の感情を持ってんなら、どこかできちんと伝えた方がいい」
「ためになるアドバイスどーも」
「なんていうか、俺たちもお前の幸せを願ってんだよ。それと、ノリに任せて女どもを読んでしまってすまない。お前に好きなやつがいるって知らなかったから」
「いーよ、色々考えてくれてありがとな」

深夜の町は静かで、照れ隠しのつもりで呟くように言った僕の言葉さえ無遠慮に響かせる。


どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~23

第23話「新たな目標」

8月半ばを過ぎた太陽は熟した果実のように鮮やかな色合いを湛えつつ、魔法瓶の底の残り湯のように惰性的な熱を放っていた。
弾き語り部門の部室(兼卓球部部室)にはエアコンが設置されていない。もともと運動部は部室内での活動を前提としていないため当然といえば当然だ。暑さに堪えきれず開け放った窓からは茹った野草の匂いを含む生ぬるい風が吹き込み、その不快感に誰もが顔をしかめた。

窓際の中央に据えられたソファーの上では杉田先輩がガリガリくんを齧っている。
部屋の右側3分の1にはカーペットが敷かれていて、胡坐をかいた五智先輩がギターを磨き、壁によりかかった正方寺が音楽の技術書を読んでいる。
部屋の中央には4人がけのテーブルがあり、ひまりさんと清里珠美さん、それに卓球部副部長の国府涼子先輩が座っている。国府先輩は手元グラスに並々と注がれたハーブティーを見つめながら、困惑の表情を露にしている。

ハーブの匂いが、流れ込む野草の匂いと混じり合っている。

「えー平ちゃんも来たことだし、ミーティングを始めよう」ガリガリくんの棒にあたりの文字がなく若干落胆した様子の杉田先輩が、棒をゴミ箱に向かって放り投げながら言った「夏休み中にここに集まってもらったのは他でもない」ゴミ箱から大きく外れて落下した棒を拾い直し「学祭ライブについて、そろそろ話し合っていかねばならないなと思ってね」棒をゴミ箱に落とす。

学祭、もうそんな時期か――
皆の口からそんな声が漏れる。

「ていうか、なんで私がここに呼ばれなきゃならないの?」ただ一人部外者である国府先輩(といってもこの部室の正式な所有者は彼女なのだが)は怪訝な顔で杉田先輩を見る。
「涼子は軽音部部長の弱みを握っているようだからね。学祭で演奏する交渉をあいつとするときに、その弱みを切り札として使わせてもらいたいわけよ。そのへんの打ち合わせのために来てもらった」
「ああ、そういうこと」理解はしたが納得はしていない様子だ。軽音部部長の弱みとは何なのだろうか。あとでひまりさんに聞いてみるとしよう。

「まず決めなくちゃならん事は、どんな演奏グループでいくかだ。俺とごっちん、平ちゃんとほーじくん、ひまちゃんとタマの計3組での発表が当たり障りないと思うけども」
「それでいいんじゃないですか」と僕は言う。
「出来れば、6人全員での発表もしたいっす」と正方寺が言う「先輩たちは引退しなきゃなんですし、最後は盛大にやりたいじゃないっすか」
ひまりさんと清里さんは大きく頷く。
「んじゃ実際は計4組ってとこか。1組2曲はやりたいから、機材準備の時間も考えると大体1時間程度必要になるわな。こりゃ切り札を使わんといかんなぁ」杉田先輩が国府先輩を横目に見やりにやりと笑う。
『まったくもう』といった様子で国府先輩はハーブティーに口をつけた。ほんの少しだけかさの減ったマグカップに、清里さんがなみなみとお茶を注ぐ。満足げな様子の清里さんと、辟易した表情の国府先輩。

「学祭まではまだ2ヶ月近くあるけど、これからの活動は学祭に向けての練習がメインになるだろうね。なんかやりたい曲目ある? 交渉次第では楽譜くらいなら部費で買えるかもよ?」杉田先輩はまた国府先輩を見てにやにや笑う。大きなため息を吐く国府先輩と、お茶を注ぐタイミングを見計らっている清里さん。
部外者であるはずの国府先輩だけど、多分今一番弾き語り部門のことで頭を悩ませている気がする。
「私はにゃこ禅の曲がやりたいです」ひまりさんが言う「珠美ちゃんはどう?」
「それでいいんじゃない?」清里さんが頷く「あたしもやりたい曲探してみるわ。一曲ずつってことにしよう」
「うんっ」ひまりさんは嬉しそうだ。
「俺らはまた適当にギターインスト曲作って演奏するわ。それでいいっしょ?」と杉田先輩。
「うむ」と返す五智先輩。
「俺たちはどうする?」と正方寺が僕に尋ねる「お前最近『ノザラシ』の曲よく歌ってるし、それにしとく?」
「うーん……」僕は下を向いて考えた。いや考えるフリをした。僕の中で既に答えは出ていた。一呼吸置いて、僕は顔を上げる。

「僕は、オリジナル曲をやりたいです」

それは勇気のいる決断だった。
杉田先輩たちのギターインスト曲は歌詞がないため、先輩たちの演奏技術があれば誰が聴いても『すばらしい』と感じるだろう。それこそ音楽の専門家でもない限り、音楽という言語の内容を的確には評価できない。異国語でどれだけ低俗な会話を繰り広げようと、その意味を理解できなければ高尚な討論を繰り広げているように見えるのと同じだ。
しかし、ボーカルのある曲には当然歌詞もある。
メロディーに歌詞がのることで、音楽は途端にやわらかく飲み込みやすい代物に変わる。
そして当然、誰もがその良し悪しを評価出来るようになる。
去年軽音楽部の1組がオリジナル曲をやった。確かに演奏技術はすばらしかったのだが、曲としての完成度はイマイチで観客もあまり盛り上がらなかったように記憶している。
そもそも僕ごときが内心で『完成度はイマイチ』なんて評価を下している時点で、オリジナル曲をやることの難しさが伺える。

オリジナル曲は失敗する場合が多い。

それは僕が今までの経験から感じたことだ。
観てくれる観客を喜ばせたいなら、無難だが既存の曲、出来れば多数が知っている曲をやるのが一番なのだ。

でも、それでも僕はオリジナル曲がやりたかった。

歌いたいこと、伝えたいこと、それが今自分の中でくすぶっている。
このくすぶりを炎へと焚き付かせるのは、多分今しかないのだろう。
僕がこの6人の『弾き語り部門』のメンバーである、人生の中で一瞬とも言える、今のこの瞬間しか――

「おお! いいじゃん!」正方寺が言う「ていうか、俺はその言葉を待っていたよ。平の曲、俺も歌いたいと思ってたんだよ」僕の密かな作曲を正方寺には打ち明けていた。しかしそんなふうに思ってくれているとは知らなかった。
「ん、いいんじゃね?」杉田先輩は頷く。おそらく僕の感じている『オリジナル曲を演奏する危うさ』を理解したうえでの肯定なのだと思う。

「それじゃ、細かいところは後々決めていくとして――学祭まで2ヶ月、とりあえず張り切っていきますか」杉田先輩の言葉に皆は頷いた。

「卓球部は何をするんですか?」ひまりさんが国府先輩に尋ねる。
「うちらはたこ焼き屋台。ほらたこ焼きってピンポン玉に似てるから」さすがに苦しくなったのかハーブティーの水面に映る天井を見ながら答える。
「あ、いいこと思いつきました。たこ焼きの中に1つだけピンポン玉を入れておくってのはどうですか? どれがピンポン玉なのかハラハラドキドキのスリルがあって、きっと面白いと思います」
「いや、それ普通にバレるし、そもそも苦情が殺到するから……」あきれた顔の国府先輩は本日何度目かの溜息を吐いた。

恐怖心の文章化その1

『踏切』


その夜は雪が積もっていた。

僕の部屋の窓から見渡せる田園風景も綿を敷き詰めたように白一色へと染まり、凹凸が均された平坦な地面が数百メートル先の県道まで広がっていた。

地面には雪の白、明確な境界線を越えて広がるのは空の黒。雪は一時的な小康状態を迎えている。

窓のカーテンを開け、ガラスに溜まった結露の水滴を右手で拭うと、窓から漏れた明かりが辺りの白を輝かせた。まるで僕が一歩踏み出すのを待っているかのように、外には白い絨毯が敷き詰められている。

僕は少しだけ窓を開けると、タバコに火をつけた。窓の隙間から吹き込む風は冷たく、夢現な僕の頭を覚まさせる。何の気なしに遠くの県道を眺めている。

県道の先には踏切があった。

そこに何かが立っていた。

その何かは線路の中央に立ち、両手を力なく垂れ下げた状態で、左右にゆらゆらと揺れていた。
人のような形をしているが、その挙動が公衆の前での一般的な人の様相と大きく異なっていたため、一瞬何か得体の知れない生き物を見たような気分になる。

しかしすぐに、酔っ払いか、と思い直す。

休前日の夜ともなれば羽目を外して限界まで酒を流し込む人も当然いるだろう。そして理性を無くした結果、ああいう失態を生む。

僕はその哀れで滑稽な何かに侮蔑の意を込めながら、タバコを吸い終わるまでの間しばし眺めてやる事にした。

踏切の男がこちらの方に顔を向ける。

この深夜に照明を灯しているのは近隣でもこの家だけだろう。明かりの中に黒い人影が見えたら、大いに目立つかもしれない。
盗み見している事がばれたかな、と僕は苦笑する。

何かがこちらに手を振る。

酔っ払いの奇行に付き合ってやるのも一興かなと、僕も右手を上げる。

そこで僕は気付いた。

その何かの体は、明らかに白すぎた。

その白さが素肌の白さだと気付くのに、さほど時間はかからなかった。

降り積もる雪の中、その何かは、一糸纏わぬ姿で立ち尽くしているのだ。

僕は背筋に冷たいものを感じた。
それは窓から吹き込む冬風のせいだけではない。

あの何かは酔っ払いなどではない。
おそらく違法なドラックなどで精神に異常をきたした狂人だ。
僕は姿と居場所を見られてしまったことで、身の危険を感じていた。

何かは両手を挙げて僕に手を振っている。

僕は金縛りにあったかのようにその何かから目を逸らせずにいる。

目を離した瞬間に、その何かが視界から消えてしまう事が恐ろしかった。
視界から消えた何が気付けば家の前に立っていて、狂ったようにドアを叩きだす――そんな想像が僕の足を竦ませた。

僕はポケットの携帯電話を探り、ベッドの枕元においてきた事を思い出して舌打ちをした。

物音が全て雪に吸い込まれる冬の静寂。

その静寂を切り裂くようにして、踏み切りが叫び声をあげはじめた。
遮断機が下り、その何かを線路の内側に隔離する。

何かは手を振るのを止め、こちらの方に向かってゆっくりと歩き始めた。

僕は目を見開く。

根元まで灰になったタバコを灰皿に押し付けるも、目はその何かから逸らさない。

聴きなれた踏み切りの音が、何かのカウントダウンに聞こえる。

何かが遮断機に近づく。

僕の心は急かされる。

自分が何を望んでいたのか、よく分からない。
ただ、走り抜ける電車の轟音が、この異様な状況に終止符を打ってくれる事を願っていた。

遮断機の内側で、その何かはもう一度手を振った。

その瞬間、貨物列車が轟音を響かせながら踏み切りを通過していった。


・・・・・・・・・

・・・・・・

・・・


布団に潜り込んで目をつぶり震えているうちに、しばしの眠りに落ちていたらしい。
僕はのっそりと布団から上体を起こした。

今の時間は早朝六時。

カーテンの隙間から覗く外は薄暗いが、一日は既に始まりを迎えている時間帯だ。

僕は電気ケトルでお湯を沸かし、インスタントコーヒーの粉末を入れたマグカップに注ぐ。

昨晩の出来事が、まるで夢のように感じられた。

あれから、雪は積もったのだろうか。

僕はカーテンを開けて外を見た。

白が、赤に染まっている。

窓の外、ベランダの片隅に、何かがいた。

下半身の千切れた、上半身だけのその何かは、黄色く濁った血走った目をこちらに向けていた。


【コメント】
うちのアパートから踏切が見える。
自分は子供の頃から『遠くに見える得体の知れないものを覗きみる』事に何かしらの恐怖を感じる部分があった。
遠くにいる=今現在は直接的な関連性がない、しかしバレた場合に自分自身に何かしらの影響を与える可能性があり、その可能性に怯えている。自分では関与できないところで何かが進行し、それに手を加える事は出来ない。自分は当事者で影響を受ける立場でありながら傍観者の立場で係わるほかないもどかしく理不尽な状況、それが恐い。
雪の降りしきる中、遠くの踏切を見ていたらそういう感覚が蘇り、なんとか形にしてみようと思い書いてみた。
今後、そういう『自分の中にある恐怖心』を表現した話なんかも書いていこうと思う。
うまく書けたらだけど。
とりあえず、今回のは限りなく失敗に近い。
精進せねば。
プロフィール

幕田卓馬

Author:幕田卓馬
糖、脂質、プリン体、塩分などに気を配らないといけない歳になりました…若い頃の不摂生が原因でしょうか。まだ三十路、されど三十路!
そんな男が日々の合間に小説を書いています。

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