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どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~⑧

第8話「お約束の過去話(前編)」

時間は色々なものを流してくれる。
けれども、心の川底に残留する想い出だって確かにある。
普段は砂底に隠れているかもしれないが、小さな魚が尾鰭を振るっただけで、それは舞い上がる粒子の中から顔を出す。

なじみの居酒屋のカウンターで日本酒をちびちびと舐めながら、私――卓球部副部長の国府涼子はしみじみと思った。

お花見の日、久しぶりに会った2人の表情で、私は彼らの川底に沈みこんでいる何かを垣間見たような気がした。
それが黄金色の「何か」なのか、くすんだ灰色の「何か」なのかは、私にはわからない。

でも私は思う。

たとえくすんだ灰色だったとしても、流水によって磨き上げられる事でまばゆい光沢をもつ場合もあるのではないだろうかと。
そしてそれは、黄金色と等しいくらい、美しいのではないかと。

あの子――桐原加奈との想い出は、2人の中でどんな色を湛えているのだろうか。

加奈は子猫みたいに小さくて、丸い目をした女の子だった。
その守ってあげたくなるような儚さを、長身で「女の子らしいかわいらしさ」に欠ける私はすごく羨ましく感じていたのを覚えている。

でも加奈自身は自分の小ささ、弱々しさを克服すべきものとして捉えていたようだった。

なんとなく2人でつるむようになって数週間で、あの子のそんな一面が見えてきた。
出された食事は絶対に残さないとか、高いところのものをとる時も人に頼まないとか、フェミニンな服装はしないとか、男の人に絶対に奢ってもらわない(むしろ奢ってやりたい)とか、ひとつひとつは小さなことだけれども、確固たる意志をもってそれらを実行していた。

だから加奈が「軽音楽部に入りたい」と言った時も、それほど不思議には思わなかった。
ロック音楽の反社会的なスタイルがあの子の琴線に触れたのだろう。

しかし軽音楽部と加奈は全く反りが合わなかった。

うちの大学は新設大学だから、現在の3年生が第1期生にあたる。
だから今の軽音部部長は1年生の時点ですでに部長だった。
そんな環境の中、自分を「女性」として扱ってくる軽音部部長の態度があの子は気に食わなかったんだと思う。
あの軽音部部長にはそういう露骨に気障なところがある。対する加奈は見てくれは可愛らしいのに中身は私なんかよりよっぽど男前だ。軽音部部長に甘い言葉を囁かれ鳥肌を立てているあの子の姿が思い浮かぶ。

「部長が言ったんだ『君みたいな可愛らしい小鳥ちゃんは楽器なんか弾けなくたっていいんだ。俺たちのギターの音色を追い風にしてステージを舞い、美しい囀りを響かせてくれればいいんだ』とかなんとか、気持ち悪いことを――」

その言葉は純粋に楽器を始めたいと思っていた加奈の気持ちを踏みにじるものだった。

それが決定打となって、加奈は軽音部に対し完全に反発するようになる。

でもそんなところが、同じく軽音部のつまはじきものだった2人――杉田くんとごっちんと共振したのだろう。

ごっちんはギターがうまかった。
おそらく他の軽音部員の中でも断トツでうまかった。そのくせあの性格だから、誰とも馴染もうとせずいつも一人でギターを弾いていたたらしい。彼自身に協調性が足りないというのも確かにあるだろうけど、うちの軽音部が持つ「ノリ」みたいなのについていけなかった、というかついていく気が起きなかったといったところなのだろう。
そんな部の異物であるにもかかわらずギターだけはものすごくうまい。
だから当然、他の部員から尊敬される。
それが、軽音部部長は気に食わなかった。

杉田くんはどうかというと、楽器は全く弾けずただ「モテたい」という不純な動機で軽音楽部に入部したらしい。ただこちらもあの性格だから、必要以上に偉そうな軽音部部長と合うはずもなく、何かにつけて衝突していた。
ポテチを食べた手でギターに触るなとか、部室でマンガを読むなとか、全面的に杉田くんに非がある場合がほとんどだったようだけど、そういうのに縛られるのが大嫌いな杉田くんが素直に聞くはずもなく、言われれば言われるほど天邪鬼になって反発した。
杉田くんは子供みたいなところがある。
でも、杉田くんは自由だ。
誰にも縛られたりはしない。

自分が勝手に作り上げた「自分」という鎖に縛られている私とは全然違う。

軽音楽部から疎外された3人は、自然と団結することになった。
ギターを真剣に学びたかった加奈はごっちんが講師をしているギター教室に通うようになり、暇を持て余していた杉田くんもそこに通うようになる。

そして加奈の友人として私が3人に加わり、それからしばらくは4人で会うことが多くなった。

この居酒屋も、私たち4人でよく飲みに来た場所だ。

杉田くんとごっちんが競い合うようにビールを飲み、お酒に弱いはずの加奈も負けじとそれに加わろうとする。私はそれを見て笑いながら女子力高めのカクテルをちびちび飲む。

時には夜の大学の中庭でギターの音色を響かせた。
たどたどしい加奈と杉田くんの演奏を、ごっちんの綺麗な旋律がからめとり夜空へと響かせる。
私は中庭に作られたよくわからないオブジェに座ってそれに聞き入る。

加奈と杉田くんのギターの腕前が十分演奏で通用するレベルになった夏の初め、加奈が「弾き語り部門を作ろう」と言い出した。
3人が自分の好きなスタイルで音楽を奏でられる空間を作りたいと、加奈は常々考えていたようだった。
軽音部部長に相談したところ渋々ながら承諾を得る事が出来た。
かわいい加奈にされたお願いを断りにくいという気持ちが半分、目障りな男2人を部から隔離しておくのに好都合と考えたのが半分、といったところだろう。

こうして軽音楽部弾き語り部門が誕生した。

多分、私たち4人が一番楽しかった頃だ――

それにしても、昔を思い出しているといろいろムカムカしてくる。

男はバカだ。

なぜ自分に向けられる視線の機微を感じる事が出来ない。

特に杉田くん、あーなんであの人はあんなに鈍感なのだろうか。

好きな子が、その好きな人に向ける視線には変に敏感なくせに、自分に向けられるものにはなんで気付くことが出来ないんだろう。

ほんとバカだ。

でも、バカなのは、自分の気持ちをいまだに鎖で縛りつけている私も同じだ。

日本酒をぐいっと飲み干した。
喉の奥が熱くなる。


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No.14 ヒトスジシマカ

デング熱で一躍話題の「怖い虫」となったヒトスジシマカです。

ヒトスジシマカ


庭でぼーっとしてたら8ヶ所くらい刺されましたが、吸いきるまで血を吸わせてあげたのでかゆみはほとんどありません。

痒みを引き起こす唾液(血液の凝固を抑える成分)も、最終的には血と一緒にあらかた吸い尽くされる。
だから刺されたら途中で止めずにほっとくのが吉――と、私は思っているのですが、実際はどうなのでしょう。

そういや大学生の頃、卒検のサブテーマで「植物精油の殺虫作用」みたいな研究をしていたのですが、
その時実験に使用したのがこのヒトスジシマカでした。

お手製の飼育ケース内でマウスの血を与え、試行錯誤の末なんとか繁殖に成功。

しかし繁殖サイクルが軌道にのるまでは、僕は自らの血を彼らに与えていました。

右腕に群がる数十匹のヒトスジシマカ――

他人から見れば狂気の沙汰でしょうが、僕としては至って真面目で、むしろ喜びすら感じていました。

夏休みに実家に帰った時も、「蚊が心配だからもう帰る」とすぐに学校へ舞い戻っていたのは、今でも家族の笑い種です。

僕の青春の虫、それが「ヒトスジシマカ」なのです!!

おお、きたきたきた

夜の北陸道をとばしてたら、次に書く長編のネタが思い浮かんだ。

内容的にはまた「新たなるジャンルへの挑戦」になりそうだけれど、よく考えると毎回が挑戦だったような気もする。

ダラダラと、焦らず、しかし確実に書いて行こう。

他に書くこともないので、個人的に今までで一番よく撮れた写真を貼ってお茶を濁す。

美人林

松代の「美人林」ってところ。

スマホの壁紙とかにすると良いかもしれない。

以上、徒然なるままに書いた駄文でした。



どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~⑦

第7話「弾き語り部門の熱い夜(後編)」

「杉田って、杉田三郎君かい?」先生が驚いた顔で五智先輩を見る「彼はまだギターを続けていたんだね」先生は杉田先輩の事を知っているのだろうか。

「続けているというか……」五智先輩は口ごもる「いずれにせよ、こういう状況じゃ、杉田に頼るしかないです」

五智先輩はスマホを取り出すと電話を掛け始めた。

「なぁ平」正方寺が言う「杉田先輩が来たところで、どうしようもないんじゃないのか?」
「うーん」僕も否定する事が出来ない。杉田先輩が来たところで、ソファーズのリードギターの一方を荷うほどの腕前があるとは到底思えない。

僕たちは、杉田先輩がギターを弾いている姿を見たことが無いのだから。

「ごめんね、僕がこんな失態をやらかしたばっかりに」左腕を押さえながら先生が僕たちに頭を下げた。
「いえ、そんないいんですよ。杉田先輩が来てくれるかもしれないですし」来たところでどうにもならないだろうけど、下げられた頭を上げてもらうための方便として、僕は杉田先輩の名を出した。
「君たちは杉田君の後輩なのかい?」
「ええ、僕たち4人で軽音楽部弾き語り部門なんです」正方寺が応える。
「そうか、弾き語り部門か」先生は遠い目をして嬉しそうに笑った気がした。
「先生は杉田先輩を知っているんですか?」僕が質問する。

「知っているも何も、彼は僕の生徒だったからね。いや、正確には五智君の生徒かな。五智君が、杉田君ともう一人『桐原さん』という女の子にギターを教えていたんだよ。彼らが大学に入ってすぐの頃かな」

初耳だった。

五智先輩と杉田先輩は、弾き語り部門以外でもつながりがあったのだ。

でも、桐原さん? 聞いたことが無い名前だ。

「五智先輩にギターを習ってたにしては、杉田先輩はギター下手だよなぁ」正方寺が呟く。
「杉田君が下手だって?」先生は驚いた顔で正方寺を見る。
「僕達は先輩がギターを弾いているところを見たことがないんです」僕は困ったように笑う「だから、上手い下手以前の問題で――」
「そういう事なら、彼は弾けないんじゃない、おそらく弾かないんだと思うよ」
「どういうことですか?」
「詳しい事情を僕は知らないけど、少なくとも彼のギターは下手なんかじゃない。経験の差があるから五智君には到底及ばないけれど、杉田君のギターセンスは生徒の仲でも抜きん出ていたよ。あれだけ成長の早い生徒を僕は見たことがない」
「そんな、ならなんで、ギターを弾かないんですか?」僕は訳が分からなくなってきた。
「それは分からない。ただ、何か理由があるんじゃないかな」先生の顔は生徒を案ずる指導者の表情になっていた「そうか――弾かないか」

「そこを何とかならないのか?」
電話をしている五智先輩の語気が強まる。どうやら難航しているらしい。

「いや、ゲームなんていつでも出来るだろ」

「ん、飯はコンビニででも買えばいい」

「堅あげポテトもコンビにで買え」

「だから、ゲームは明日でいいだろう」

その言い訳のレベルの低さに僕は辟易した。
杉田先輩はどうしてもここに来たくないらしい。余程面倒なのだろうか。

「――なに」急に、五智先輩の声音が変わった気がした。
深刻そうな表情で、頷いている。
その眉間には皺が寄せられ、ギリギリと奥歯を噛みしめている。
「ああ、お前の言いたいことはわかった。だがな、これだけは言っておく――」
そして低く、しかし鋭い声で言い放った。

「ギターを弾くのに資格なんて要らない。桐原はそんなこと望んじゃいなかった」

数秒の沈黙の後、杉田先輩は電話を切り「来るらしい」そう一言呟いた。

19時になり、発表者の家族や友人などの観客達が集まりきったところで、発表会の幕が上がった。
「それではみなさん、楽しんでいってください」
先生からの一言を皮切りに、各々のバンドによる演奏が始まる。
アニメの主題歌を演奏する中学生バンド。
外人をボーカルに向かえネイティブな発音で本格的な洋楽を披露する若者たち。
オリジナル曲を演奏する親子。
仕事着のままで「ロックンロール!」と叫びギターをかき鳴らすおっさん達。
それぞれ熱のこもった発表が続く。

一つのバンドが演奏を終えるたびに、僕は心臓の鳴りは高まって行く。
耳障りで、不快な音色だ。
さっきまでの心地よい緊張は、今は罪悪感に取って代わられている。
本当に杉田先輩は来るのだろうか。もし来なかったらリードギターは五智先輩だけになってしまう。講師陣の演奏が発表者の中で一番情けないものだったら、集まった人たちはどんな気持ちになるだろうか。先生が怪我をしてしまったという理由はあるにせよ、きちんとした演奏を披露する責任が僕たちにはあるのではないだろうか。
脇にいやな汗が滲んだ。
ああ、何故僕は五智先輩のように上手く弾けないのだろう。
もしかして僕が下手糞なせいで、僕がリードギターを弾けないせいで、今こんなにどうしようもない状況に陥っているんじゃないだろうか。
これで演奏が不評だったら、僕の全ては僕の責任なんじゃないだろうか。
体が震える。
純粋に恐怖と不安から来る震えだ。
「平、大丈夫か?」正方寺が心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
僕は何も答えない。答える余裕がない。

その時「来た」五智先輩が呟いた。

ギターを抱えた杉田先輩がキョロキョロと周囲を見回している。五智先輩が手を上げると、杉田先輩が小走りで近づいてきた。
「よう」
「悪いな」
「堅あげポテト全種類な」
「ああ」
「俺たちの番はいつだ」
「次の、次だ」
「了解」
「ソファーズのリードは弾けるか?」
「ごっちんが弾いていたパートなら。飽きるほど聴かされたからな」
「わかった、なら私は先生のパートをやる」
そこで杉田先輩は僕たち2人に目を向け、「お前ら、緊張しすぎじゃね?」と言って笑った。
「すみません、僕が下手糞なせいで」僕は消え入りそうな声でそう呟く。
「まぁ、平ちゃんは色々器用貧乏なところがあるからね、色々押し付けたごっちんが悪いよ」ハードケースからギターを取り出す。弦は張り替えられ、ボディも綺麗に磨かれていた「まぁ、俺に任せとけって」

あの杉田先輩の言葉なのに、その声には普段にはない重みがあった。
僕は急に肩の力が抜けるのを感じた。
震えはいつの間にか止まっていた。

「先生、久しぶりっす」
「ああ、杉田君、久しぶりだね」先生が杉田先輩の存在に気付いた「大学で色々頑張ってるみたいだね」
「まぁぼちぼちっすかね」
「あれ、そのギター」先生の視線が杉田先輩の持つマーチンに向けられた「確か、桐原さんの――」

『じゃあ、続きまして先生方のバンドです』そこで司会進行からお呼びが掛かる『先生は先ほど手首を怪我してしまいまして――ああ、もちろん大事には至ってないですが、今日は演奏が出来ないようなので、五智君――いやいや、五智先生とそのお仲間での発表になります』

「いくか」五智先輩が立ち上がる。
僕らも立ち上がった。

中央左側にボーカルの正方寺、その更に左隣に僕。
中央右側には五智先輩、更に右隣には杉田先輩が立つ。

ステージにたつと、今まで座っていた向こう側の世界は、黒のクレヨンで描かれたみたいに現実感が希薄でぼやけた輪郭だけの世界へと反転する。
対して今僕たちが立っているこの世界は、スポットライトが粟立つ肌の産毛の一本一本すら際立たせる光の世界だ。
光によって照らし出され、身体という遮蔽物さえも取り除かれたむき出しの心が、魂が、そのまま僕たちの姿をとってステージに立っているような気分だった。
全てが敏感に感じ取れるが、どこか地に足がついてないような浮遊感もある。
それは心もとなくもあり、同時に快感でもあった。

「えー、先生方バンドです」五智先輩がマイクに向かう「ソファーズの曲を2曲やります」
五智先輩らしい簡潔なMCに会場から暖かな笑が漏れた。

五智先輩が杉田先輩を見る。
杉田先輩が頷く。

ギターが鳴った。

五智先輩のギターに、杉田先輩のギターが応える。
二つの音は互いが互いを高めあい、支えあい、手を繋ぎワルツを踊るように、ついては離れてを繰り返しながら会場を円舞する。

杉田先輩が五智先輩にニヤリと笑いかける。
『あいかわらず、いい音鳴らすな』そう言っているような気がした。

五智先輩も口元だけで笑った。
『お前もな』そう言っているような気がした。

そんな一部始終にまで意識を巡らせられるほど、僕の神経もまた研ぎ澄まされていた。

正方寺が歌う。

相変わらず感情豊かで力強く、ほれぼれする歌声だ。

僕はその後ろから背中を押すように声を響かせる。決して正方寺を邪魔することなく、でもしっかりと存在を主張する。

今4人は一つの音楽になっている。
魂だけの僕たちが完全に一つの美しいメロディーへと昇華されている。

楽しい。
ただ、純粋に、ものすごく、楽しい。

1曲目が終わる。
すぐさま次の曲に移ろうとする五智先輩を制して、杉田先輩がマイクをとった。

「えー、僕も2年前はこの教室の生徒でした。先生や、五智君から、色々教わりました。技術的な事もありますが、やっぱり大事なことって一つですね」杉田先輩は一度言葉を切って五智先輩を見る。
そこでどんなアイコンタクトが取られたか、僕にはわからない。
ただ2人の関係――心の奥底で氷結していた何かが、この演奏の熱によって解け始めているのは確かに感じられた。

杉田先輩は再び観客に視線を戻す。
「大事なのは、ギターってめちゃくちゃ楽しいって事です」

「おおおお!めちゃくちゃ楽しいぜええ!」生徒の誰かが叫び、どっと沸き起こった笑い声と共に、その言葉は会場のいたるところに広まっていった。
皆口々に「楽しい」と叫ぶ。

杉田先輩は心底満足そうだった。

「以上、先生方バンド、改め曇天大学系音楽部弾き語り学部でした。よし、次の曲いこうか!」

そして、弾き語り部門史上、最も熱い夜が更けていく――

「なぁ平」ほろ酔い気分の家路で、正方寺が何度目かの言葉を呟く「五智先輩と杉田先輩、めちゃくちゃかっこよかったな」
「そうだね」僕も何度目かの言葉を返した。
「杉田先輩ってあんなにギター上手かったんだ」
「うん、驚いた」
「2人の掛け合いも絶妙だったしさ」
「そうだね。僕もあのくらい上手くなりたいよ」
「でもさでもさ」正方寺の顔がだらしなく崩れる「俺たちの歌だって、すごい絶妙だったと思うぜ。平のハモリ、すげー気持ちよかったもん」
「よせよ、照れるなぁ」
僕は照れた顔を見られたくないので空を見上げた。

春の終わりの夜空には、いくつもの星が輝いている。

「それにしても」正方寺がまた口を開く「今日の五智先輩と杉田先輩、すげーかっこよかったよな」
「ああ、ホントにね」夜空を見上げながら僕は応えた。

どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~⑥

第6話「弾き語り部門の熱い夜(前編)」

「頼みがある」五智先輩が言った「ライブに助っ人として参加して欲しい」
当然、僕と正方寺は首を傾げる「え、ライブって何のライブですか?」

「えっと、だな――」五智先輩の説明を要約するとこういう事らしい。

五智先輩はとあるギター教室で講師のバイトをしている。今度ギター教室でライブ形式の発表会を行うのだが、生徒はもちろん講師である2人(正式な講師とバイトの五智先輩)も発表を行う事になった。ライブ形式のため、生徒たちはそれぞれ必要な楽器の経験者なりを助っ人として集める事になる。講師2人も演奏を予定している楽曲にツインボーカルが必要なため、助っ人としてボーカルを探さなければならない。それで僕たち2人に白羽の矢が立った。場所は駅前の音楽バー。発表会の後にはお酒が提供されちょっとした懇親会が催される。是非参加して欲しい。

「ソファーズを2曲をやろうと思っている」
「ああ、ソファーズですか。なら確かにボーカルが2人必要ですね」ソファーズは今から20年前くらいに結成された3ギター2ボーカルの珍しい形式のアコースティックバンドだ。テレビの音楽番組などで目にする事はほとんどないが、今での根強いファンを持っている所謂『知る人ぞ知る』系のバンドだ。

五智先輩はバンドスコアのコピーを広げた。
「正方寺がメインで、平にはコーラスを担当して欲しい。サイドギターのコード弾きは平、私と先生でリードギターを担当する」
ソファーズは2本のアコースティックギターが織り成す掛け合いのようなアンサンブルが特徴だ。二つの音色が互いに競い合いながら地平線へと駆け抜けていくような疾走感が心地いい。
僕はバンドスコアに目を落とした。どちらの曲もコードでリズムを刻む分には特別難しい事もなさそうだ。やってやれないことは全然ない。
「出来そうか?」
「多分」自信はあるが言葉を濁すのは僕の性格ゆえだ。
「やってやるっすよ」正方寺は力強く答えた。久しぶりのライブに興奮を抑えきれないといった様子だ。

「と、いう訳だ。いいか杉田?」

「ん、いーんでないの?」それまで会話に口を挟まず堅あげポテトを齧りながら雑誌を読んでいた杉田先輩だったが、五智先輩の問いかけに空返事で応える。
目線は雑誌に向けられたまま。

五智先輩の眉間に一瞬だけ皺が寄る。

「リーダーの許しが出た。発表会は2週間後だ。少し合わせてみよう」

それから2週間は、弾き語り部門には珍しく音楽的に充実した2週間となった。

先生との合同練習は日程の都合で出来なかったが、改善して行くべき点は熟練のギタリストである講師2人よりも僕と正方寺にある。3人で息の合った演奏が出来れば、それに先生が上手く合わせてくれるだろう、というわけだ。

コードでジャカジャカ弾くだけといっても、歌いながらみんなに合わせるとなると、なかなか難しいものだ。どうしても歌の方につられてしまいギターが走り気味になる。自分の意識を二等分して歌とギターに分配する――なんて芸当は頭では分かっていても実際に出来るものではない。
重要なのは歌もギターも何も考えずにこなせるくらい身体に覚えこませる事。
そうしない事には、とてもじゃないが他の人の演奏を聞いてそれに合わせるなんて出来やしない。
ドラムやベースがいればそれに合わせて演奏すればいいんだろうけど、今回はギターが三本のみ。
お互いがお互いのメトロノームになるしかない。

杉田先輩は堅あげポテトをかじりながら「平ちゃん、また走り気味じゃね?」とちょくちょく突っ込みを入れてきたが、それも自分を客観的に見る上ではいい忠告になった。

最初の1週間で形になってきた。

次の1週間は3人で合わせる事を楽しんだ。

そして、発表会当日になった。

発表会は19時からだが、準備もかねて15時には音楽バーに顔を出す予定だった。準備が終わったら少しばかり4人で合わせてみよう、という思惑がある。
ギターを背負って原付をとばす。
駅裏口の駐輪場に原付を止めて駅の表口に出たところで正方寺に会った。
「なんか緊張するな」僕が言う。
「こういう緊張って毎回あるけど、だんだんと快感に思えてきたよ」正方寺が返す。

音楽バーは雑居ビルの三階だった。エレベーターを降りるとそこがバーの入り口になっていて、慣れない雰囲気に気圧されながらも扉を開けた。
「ああ、来たか」マイクのセッティングをしている五智先輩がこちらを見て手招きした。
「お邪魔しまーす」この挨拶が適当かは不明だが、肌に合わない空気の中に飛び込んで行く事に対する若干の戸惑いが言葉となって口からこぼれた。こういう店に入るのは初めてだし、髪を逆立てた兄ちゃんや、ピンクの頭のギャルなんかが入り浸っているようなイメージがあって、何となくだが場違いな気がしてしまう。
中はけっこう広々としていて、右手にカウンターテーブル、左手にコの字型に並んだソファーとガラス製のテーブルが置かれていた。奥の方がフローリングになっていて、そこに様々な音楽機材なんかが並べられている。

「ああ、君が助っ人君たちか、よろしく」五智先輩の隣に立つスキンヘッドで温厚そうな目をしたおじさんが笑いかけた。おそらくこの人が先生だろう。
「よろしくお願いします」僕と正方寺がハモった。

それからマイクやアンプのセッティングを先生や五智先輩に言われるままに手伝った。音声マイクとギターを拾うマイク(サウンドホール辺りにマイクを当てている)の調整が済んでから、一度4人で合わせてみる。音の強弱などの調整が主だったが「うん、歌も演奏も問題ないよ。本番が楽しみだね」と先生は笑った。どこか人を安心させる声だった。

17時を過ぎた頃から参加者たちが集まり始める。
保護者同伴でくる中学生から、中年のおじさんたちまで、年齢層は実に様々だった。
僕は演奏順が記載されたA4用紙に視線を落とす。
『先生方バンド』は演奏会のトリだった。
だんだんと「演奏する」という実感が湧いてくる。待合席もかねたソファーに座り、意味もなくギターのチューニングを合わせなおしたり、指板に滑りを良くするオイルを塗ったり、落ち着き無く動き回った。

日が傾き、霧のような闇が部屋へと染みこんできた。
誰かが照明でステージを照らす。
光のナイフで空間が切り取られ、別の次元へと通じる扉が開かれる。
そこは昼と夜、光と闇が逆転した世界だ。
そこに立ちこちらを振り返った時、今いるこの世界はどのように見えるのだろうか。

そこで僕たちは演奏するんだ。

身体が震えた。
恐怖や不安ではない。多分武者震いという奴だ。

ドン!

突然、大きな音がした。

夢想から引き戻された僕は、音がした方に目をやる。

先生が左腕を抑えてうずくまっていた。
「大丈夫ですか!?」生徒たちが駆け寄る。
「ははは、ちょっと足を滑らせてしまってね」先生は笑ったが、右手は左手首を押さえていた。
「捻挫ですか?」五智先輩が言う。
「多分ね。でも弾く分には――」右手を離すと先生の顔が歪んだ「折れたりはしてないだろうけど、けっこう痛いね」
「安静にしているべきです」五智先輩はそう言うと、バーのマスターに氷嚢を作ってもらい先生に手渡した「演奏は――無理ですね」
「しかし」先生は言う「リードギターが2人いないとあの曲はさまにならないよ。せっかく助っ人の2人にも来てもらったのに、それじゃあかわいそうじゃないか」
「平!」五智先輩が僕をみる「お前、リード弾けるか?」
僕は首を振った。練習していない曲のリードギターを本番で弾けるほど僕は上手くない。
「だよな」五智先輩はそう呟いて腕を組んだ。

数分間の沈黙。

そして言った。

「杉田に、来てもらうしかないな」

どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~⑤

第5話「或る春の夜の出会い」

俺の名前は正方寺陽介。この春、曇天大学へ入学した。

入学から数週間は何事もなく過ぎた。一人暮らしという慣れない環境に適応する事でいっぱいいっぱいだったが、自然と学食で一緒に飯を食べるような友人らしき存在も出来き始め、こんな風に特に大きな問題もなく自分の大学生活は続いて行くんだろうな、なんてぼんやり考えていた。

その何事もない大学生活の一環として、俺は大学近くの駅前の居酒屋で開かれた「新入生同士の親睦を深める会」みたいな飲み会へ参加した。とある新入生が幹事となり学籍番号が近い数十人を集めた、いわゆるノリにまかせたゆるい感じのコンパらしい。その幹事が誰なのか、俺はよく知らない。いわゆるノリにまかせて参加を決めたのは俺も同じだった。

「正方寺くんって、彼女いるの?」
「どこ出身なの? あー私も一緒だ! 駅の近くのケーキ屋さん知っている?」

俺は女性が苦手だ。

こういう場になると、なぜか俺のところにやってきて色々話しかけてくる。俺はそんなに話が面白いわけじゃないし、彼女たちを喜ばせられるわけでもないのに。
そしてこうなるとなぜか決まって、いつも似たようなタイプの男が俺の側に集まってくる「正方寺、今度一緒に遊びにいこうぜ。あ、君たちも一緒に来る? 大勢の方が楽しいからさ!」
彼らが仲良くしたいのは俺じゃない。
何故か知らないけど俺の側にやってくる、この女子達だ。
そう思うと悲しくなって「俺は、遠慮しとくよ」答えるほかない。

ふと周りを見ると、他の男たちが俺の事を恨めしそうな目で見ている。
そんなつもりはないのに。

これだから女性は苦手だ。

彼女がいらないわけじゃない。むしろ女性に対して心を開きたいと思っている自分もいる。
ただその相手は、こんな風に俺の感情を無視して群がってくるような奴らじゃない。

そんな俺達の様子をテーブルの隅でボーっと眺めている奴がいることに気が付いた。
なんとも特徴のない見た目の奴だった。あまりにも特徴がないから、セルフレームの眼鏡だけが空中に浮いているようにも見えた。
特定の誰かと話し込んでいるわけでもなく、周りから聞こえる話し声に対して曖昧に愛想笑いを浮かべている。

逃げ場所はあそこだ、と思った。

あいつの隣に座って色々と話してれば、やがてほとぼりも冷めるだろう。

「隣いいかな?」俺は立ち上がって彼の隣に座った「俺、正方寺陽介。えっと、名前なんだっけ?」

「たいらひとし。感じで『平均』って書くんだ」

「へぇ、わかりやすい名前だね」

「よく言われる」そう言って平はビールをごくごくと飲んだ。

俺も真似してチューハイを口に含みごくりと飲む。
あまり酒は好きじゃない。乾杯の時のビールは一口だけ飲んで置きっぱなしにしていたら、誰かが間違えて飲み干してしまった。それからはチューハイを一杯だけ頼んでちびちびやっている。

「休みの日とか何してるの?」

「んー、本を読んだり、あとはギター弾いたりかな」

「ギター弾けるんだ、すごいじゃん!」

「そんなに上手くはないけどね。正方寺君は何してるの?」

「え、俺? 俺は――」特に何もしていなかった。大学に入学してからはただボーっとテレビを見たりネットを見ていたりすると、気付けば夕方になっている「特にないなー」

「好きな音楽とかはないの?」

「えっと、『かぼす』とか良く聴くし、あとは『sujimoke』とかも最近は聴くかも」

「あ、『sujimoke』聴くんだ!? あの人の『羽化』って曲いいよね!!」

急に饒舌になる平。しかしその分野は自分も得意とするところだった。
そこからお互いの好きなミュージシャンや好きな曲について話題が膨らむ。

あの曲のあの歌詞はどういう意味だとか。

あの曲はサビの変調が鳥肌ものだとか。

大学に入って初めて、自分の内面からの言葉を話せたような気がした。

気が付けばすっかりほとぼりは冷め、皆は俺たち2人の事など忘れたように各々で盛り上がってくれていた。

そのままの流れで二次会へいく。
二次会はカラオケだった。

音楽好きらしく、やっぱり平は歌が上手かった。
皆が流行の歌を唄う中、マイナーなフォークデュオの歌を唄っているため見向きもされていなかったけど、その声は繊細でよく響いた。

それに応えるように俺も『羽化』を入れる。
俺も歌には少し自信がある。友人同士でカラオケに行ったことはないが、一度親戚といったカラオケで『陽介はほんと歌が上手いな』と驚かれたことがある。まぁ親戚の言葉だからあまり信用はしていない。少しは聴けるレベルなのだろう。

何も考えず、ただ楽しむためにマイクを握った。

歌い終わった後、なぜか皆が静まり返って俺を見ていた。
次の曲のイントロが始まっているのに誰も歌おうとしない。
『何か失敗したか?』そう思って焦る俺だったが、一人が手を叩き始めるとそれは急に盛大な拍手になった。

「正方寺くん、めちゃくちゃ歌うまいんだね!」

「私感動した!」

「なに今の、プロみたいだったんだけど!」

口々に叫んだ。困惑して平のほうを見ると、彼は放心したように僕を見つめていた。
『すげぇ、すげぇ』何度もそう呟いているように見えた。

嬉しくなかったかと言えば嘘になる。

皆を喜ばせることが出来た。
俺の行った『行為』が、皆の中に感動という『結果』を生み出すことが出来た。

女子に褒められる事は結構あった。でもそれは俺の表面的な部分であって、内面ではない。
でも内面をさらけ出した歌でも、俺は誰かに認めてもらえるんだ。
それが嬉しかった。

二次会の帰り、平が僕を呼び止めた。
「あのさ、正方寺くんに頼みたいことがあるんだ」
「なに?」
「君のあの歌声に、僕は感動したんだ。一緒に歌いたいって、そう思ったんだ」平は一度俯き、急に顔を上げると目を見開いて言った「俺達と音楽をやって欲しい! 『弾き語り部門』に入って欲しいんだ!」

断る理由があるだろうか。

歌うことの楽しさを、誰かに認められることの喜びを、俺は知ってしまったのだから。

そして自分にそれを気付かせてくれたのは、間接的にせよ平だった。
そんな彼の頼みを断る理由などあるはずがない。

「もちろん」俺は頷いた。

――そんな一年前の事を俺は思い出していた。
手元には音楽雑誌。部室にはソファーでポテチを食う先輩と、ひたすらギターを手入れする先輩と、それをあきれた顔で眺めながら自分も小説を読み始める平。
予想していた未来とは違っていたが、まぁこれもいいかなと思う。
たまに平と2人で歌う喜びもあるし、何かしら演奏の機会が近づけば杉田先輩もやる気を出してくれるだろう。去年もなんだかんだで、色んなところで歌わせてもらった気がする。
「なぁ平」
「なに?」平が本から顔を上げる。
「久しぶりにあわせない?」
「ああ、いいよ」部室に立てかけられたギターを手に取る。
「おお、いいねいいねー、聴かせてよ」杉田先輩と五智先輩がこちらを向いて拍手をする。

「曲は何やる?」

「そうだなーそれじゃ、『羽化』やろう」

「了解」平のギターが鳴った。

どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~④

第4話「さくら」

大学から車で10分程度の距離にあるこの公園は、4月も半ばになると数十本のソメイヨシノが一斉に咲乱れる地元民御用達の桜の名所だ。
休日ともなると大勢の花見客が桜と、桜の下で食べるお弁当を楽しみにやってくる。
桜といえば、日本のミュージシャンの多分半数以上は「桜」に関連する曲を歌っているのではないだろうか。ストレートに「桜」という名の曲だけでも、ぱっと思いつくだけで数曲は挙げられる。それだけ日本人にとって桜は特別な花なのだろう。
この春という季節が生み出す数々の出会いや別れ。踏み出した一歩やあるいは踏み出せなかった一歩。眼前に広がる新しい世界を前にして揺れ動く僕たちの心の片隅には、いつもこの花が白く、時に暖かな桃色を湛えてながら咲き誇っている。
春は桜と共に花開き、桜の花びらと共に流れていく。

そんなこんなで僕たち弾き語り部門の面々も日本男児の嗜みとして桜が咲くこの公園へとやってきた。
しかし着いてからものの数分で、桜を散らすような強い風が僕らの心に吹き込んだ。

桜の下で愛を語らうカップル。

レジャーシートを広げ盛り上がる男女のグループ。

「リア充の巣窟じゃないか!」堅あげポテトとビールが入ったコンビニ袋を片手に、杉田先輩が絶叫した「目の前の女じゃなくてもっと桜を楽しめ、桜を!」
「仕方ないですよ、この時期一番のロマンチックスポットなんですから……」そうは言ったものの僕だって悲しいのだ。
「彼女欲しいっすね」正方寺がしんみりと呟く。
「……」五智先輩は無言で頭上の桜を見上げている。

糸目だが色白ですらっとした杉田先輩も、三白眼だが色黒で細マッチョな五智先輩も、傍から見る分にはそこそこモテそうな気がするんだが、なんでこんなにも女に飢えているのだろう。
「よしごっちん、ホモのカップルごっこをしてカップルをドン引きさせようぜ」
「や、やめろ、変なとこ触るな」
多分こういう事を人目もはばからずやってしまうからモテないのだろう。

正方寺だってそこそこジャニーズ系の顔立ちをしているからモテそうなのだが、こいつが女の子に対して見ていて哀しくなるくらい奥手なことは、一年の付き合いで十分理解している。
ちなみに僕は会った直後に顔を忘れられるくらい特徴のない顔立ちをしているらしく言わずもがな。

特に目当ての場所もないので、公園を一周して良さそうなところで落ち着こうか、という流れになった。

しばらく歩くと、杉田先輩の目が輝く。
「お、いいカモはっけーん」
先輩が向かう先には十数人のグループがレジャーシートに座り桜を観ていた。その内の何人かには見覚えがある。あれは、卓球部の面々だ。
「おーい、美味しそうなの食べてるね、俺にもちょっと分けてよ」その中で一際ガタイのいい卓球部部長に、いつものようにタカリにいく杉内先輩。
「おい、やめろよ」五智先輩がやれやれと止めに入ろうとした時、卓球部の一人が立ち上がった。

やけに線が細く、長身の女性だった。長い髪を後ろで一つに結わえている。女性はニコニコしながら杉田先輩の肩に手をやると、なにやら親しげに話しかけている。
「杉田くん、相変わらず堅あげポテトばっか食べてるんだ」
「お前にはやらんぞ」
「いいもんね。こっちのお弁当もお前にはやらんぞ」杉田先輩の口調を真似て一人ケラケラと笑っている。
「誰っすかあの人?」正方寺が五智先輩に尋ねる。
「卓球部副部長の国府だ」そう言った五智先輩の表情には、単に間借りしている部の副部長に対するものとは違う、何か別の複雑な心情が貼り付いているような気がした。

「お、ごっちんくんもいるんだ。元気ー?」
少し離れたところに立っている僕たちに気付き、手招きをする。
「元気だが」五智先輩は不機嫌そうにいう「お前ほどじゃない」
「まぁ、あたしは元気だけが取り柄だから」国府先輩は五智先輩に歩み寄りその肩をポンポン叩く「相変わらずいい体してるねー。あ、この二人は弾き語り部門の後輩だね。あ、この子超かわいい。イケメンさんだぁ」
国富先輩に歩み寄られ、正方寺は数歩後ずさる。
「ごめんごめん、驚かせちゃったね。お姉さんは優しいから恐くないよー」
「いや、その猫なで声が恐えよ」杉田先輩が言う。
「同感だ」五智先輩が頷く。
「えーヒドイ」国府先輩がしょんぼりと頭を垂れる。

そんな先輩たち3人の掛け合いを僕は不思議な気持ちで見ていた。

部員以外とバカ話をしている2人の先輩――ちょっと思い出した限りではあまり見ない光景だ。

杉田先輩も五智先輩も弾き語り部門の部室以外ではどこかよそよそしいと言うか、同じ三年生に対してすら友好的に話しているような印象があまりない。無口な五智先輩は当然としても、いつもはうるさいくらいの杉田先輩までもがガラス越しのような会話に終始しているのは、今思うとかなり不自然ではあるまいか。

そう言えば僕は、この先輩たちの事をよく知らない。

僕が入部するまでの一年間、先輩たちはどんな大学生活を送っていたのだろうか。

「でも良かった、弾き語り部門楽しんでるみたいで。2人のかわいい後輩もいるしね」国府先輩が目を細める。
「別にかわいくねーし」杉田先輩は頭をぼりぼりと掻く。
「あの子のこと、まだ気に病んでるのかもって思ってたけど――ほんと良かったよ」

杉田先輩と五智先輩の表情が変わった。

あの子って?

「つまねー話すんなよ」杉田先輩が国府先輩の目を見ずに言う「ほら、ごっちんションボリしちゃったじゃん」
「してないが」
「ごめんごめん」国府先輩が困ったように笑う「お詫びにほら、うちのご馳走摘まんでってもいいから」
「おお、さんきゅー。おい平ちゃん、ほーじくん、食い物を手に入れたぞ!」さっきの表情は春の風にさらわれ、いつもどおり飄々とした杉田先輩が居た。

卓球部の面々(もちろん女子も)と並んでおにぎりを食べながらも、開き切った花びらの白が零れ落ち、緑のがく片が見え始めるように、僕の心の中にも小さな薄黒い疑問がぽつぽつと生まれていた。

しかし、それについては問い質すべきではないような気がした。

日々はいつも通り流れ、小さな疑問なんて時と共に消え去って行くだろう。

この桜がいずれ散って行くように。

杉田先輩が食べようとしていた唐揚げを、横から奪い取って一気に頬張る。

睨みつける先輩の顔を見て、僕は笑った。

どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~③

第3話「0.12の悲劇」

「お疲れ様でーす」
「平ちゃん静かに!」部室に入った瞬間に杉田先輩に怒られてしまった。
「どうしたんですか?」小声で杉田先輩に尋ねると、ちょいちょいと五智先輩を指差す。
「ギターのチューニング合わせてるだけじゃないですか」
「ばか、よく見ろあの弦を。あれは『古い弦』だぜ?」
「な、なに!?」僕は戦慄した。確かにあの弦の色は若干赤茶けつつあるが、まさか五智先輩がそんな危険な事を――

「ようやく気が付いたみたいだな……」杉田先輩が頷く。その目には普段見ることのない緊張の色が伺えた。堅あげポテトも豪快に齧るのではなく、小さく砕いてぺろぺろ舐めている。
「どのくらいの古さなんですか?」
「ああ、弾いた後にオイルを塗らず、拭きもせず、一ヶ月近く放置していたらしい」
「それは、危険すぎますよ。なんでそんなになるまで放っておいたんですか、五智先輩らしくもない」そこで、五智先輩が抱えているギターがいつものギブソンじゃない事に気付く「あれって杉田先輩のマーチンじゃないですか。いいギターなんだからちゃんと手入れしてくださいよ」
「あはは」杉田先輩は笑ってごまかした。

プロのミュージシャンにとって弦は消耗品だろうが、僕たちのような貧乏学生にとっては弦1セットにかかる出費もばかにならない。可能な限り長く使う事が節約につながるため、時にはこのような「危険な賭け」に打って出なければならない場合もある。
古い弦のチューニングは危険と隣り合せだ。
いつ切れてもおかしくない弦にテンションをかけていく時の恐怖は、銃弾が1発だけ込められたリボルバーをコメカミにあて引き金を引くのにも似ている。
爆弾処理班になったつもりで僕たちは日々のチューニングを行っているのだ。

「おい、ついに1弦に手を出したぞ」一番細い1弦のペグに手が伸びたとき、杉田先輩は恐怖に耐え切れずそう呟く「いけるのか? いや、頼むいってくれ」

「お疲れ様でーす!」

元気よく登場した正方寺を二人で羽交い絞めにしながら、五智先輩のチューニングを見守る。

ギチ、ギチ…・・・

ペグ穴に通した弦のすれる音が場の緊張を更に高める。

僕の手のひらは汗でぐっしょりと湿っている。羽交い絞めしている正方寺の服がじんわりと湿るほどに。

ペーん

ぺーん

弦を弾き、その音をチューナーで確かめながら、慎重にペグを巻いていく。

そして――

「よし、終わった」五智先輩は呟いた。

その額には汗が浮かんでいる。
過酷なこの仕事をやりとげた先輩の表情は、疲労を感じさせつつもどこか晴れやかだった。
ハンカチで汗を拭うその横顔には職人の貫禄が見える。

「やった! さすがごっちん!」五智先輩の手からギターを譲り受けると、親指を立てて五智先輩に向ける。
「杉田先輩はポテチを食べた手でギターに触るのがそもそもよくないと思います」僕はあきれたが一応忠告しておく。
「たまには弾いてやらないとねー」何処からかピックを取り出すと、ソファーに座って膝の上にギターを乗せる。
そういえば、杉田先輩がギターを弾くところを見るのは初めてだ。
そんな好奇心が僕と(そして多分正方寺も)の視線を杉田先輩のマーチンに向かわせる。

「んじゃ、弾きますか――」

ジャラン

バ チ ン ! 

ピックが1弦に触れた瞬間、強烈な断裂音が空気を切り裂いた。

杉田先輩のギターに注目していた僕たち二人は、杉田先輩もろとも稲妻が心臓を突き抜けるような衝撃にさらされ、一瞬思考が停止する。

チューニングが上手くいったとしても、弾く段になって弦が切れるのも良くある事。
やっぱり普段からの手入れが重要なのだと僕は改めて実感した。

No.13 ミドリグンバイウンカ

虫の名前ってのはほんといい加減な気がする。

ミドリグンバイウンカ

この虫なんかはミドリグンバイウンカというようだが、緑色の軍配みたいな形したウンカってそのまんまじゃん。

今後発見される虫は「アイフォンカメムシ」だとか「スカイツリーナナフシ」とか名付けられるかもしれない。

いや、ないな。

音楽活動!

一人暮らし生活3日目。水、金が休み(土曜は仕事)という好条件にもかかわらず、新しい小説の方向性が定まらないため何も始められない。
こんな時はひたすらアイディアが沈殿して結晶化するのを待つしかないのか。

自分の大学時代をモデルにして、気晴らしに「どんびき!」という連載小説を書いている。タイトルは察しの通り某女子高生軽音楽部日常系アニメのパクりである。

当時一応軽音楽部に籍を置いていた僕だったが、弾き語りのスタイルに執着していた事もあり軽音楽部の音楽性にあまり馴染めなかった。
「どんびき!」の軽音部みたいに意地悪な感じでは全然なく、むしろ色々と手を焼いてくれたのだが、僕自身がどーしても「歌」と「ギター」のどちらもやりたいという欲求を捨て去れなかった。
バンドという形式をとると「ギターボーカル」っていうのはいかにも「俺が中心!」みたいな感じがして嫌だった。かといってギターだけってほどギターは上手くないし(それ以前にエレキを持っていなかった)、歌だけってのもなんか悪い気がする。
そんなよくわからない感情からバンド音楽にあまり興味を持てず「弾き語り」という音楽スタイルから抜け出せずにいた。

そんな僕が色んな伝手を使って集めた先輩2人、後輩1人の計4人で細々と始めたのが「軽音楽部弾き語り部門」だった。
ギターがめちゃくちゃ上手い先輩。
ギターが弾けて4人のまとめ役だった先輩。
歌が上手い後輩。
歌、ギター、ブルースハープがそこそこ出来る自分。
この構成はそのまま「どんびき!」の中で参考にしていたりする。

更に過去へと遡ると、特筆すべきはH君とのカラオケ生活や、O君との某バンド(?)の話だろうか。

でもO君については彼の黒歴史にふれる可能性があるためあえてスルーしておく。
しかしOくんともう一人の友人の3人で作ったあの名曲達を僕は決して忘れていない(今でも歌えるよ、永久平和日曜日)

H君とはカラオケで何度も一緒させてもらった。歌に関してはいい意味で「ライバル同士」だったような気がする。少なくとも僕はそう思っていた。自分の細い声と違い、彼の声は力強く心臓を鷲掴みにして感動を搾り出す。

僕が実家に戻ったら、彼らと音楽的活動を始めてみるのもいいかもしれない。

おっさんバンドだっていいじゃないか!

何かを始めようとする時、人はいつだって青春なんだよ!

どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~②

第2話「新入生歓迎会」

暗幕の影で相棒の3弦を爪弾く。小さな音がボディを振るわせた。いつもと変わらないその音色に不思議な安心感を覚えつつ、隣に立つもう一人の相棒に目をやった。
彼は片手を目の前に伸ばし開いた手を強く握っている。そこに漂っている「成功」の二文字を掴み取るかのように。
「やってやろう正方寺」ギターのボディを軽く叩いて僕は言う「僕たちのステージ、見せてやろう」
「ああ、見せてやろうじゃないか!」正方寺が片手を上げる。
「よっしゃぁ!」僕はその手を叩いた。

『次は軽音楽部弾き語り部門の発表です』

「いくぜえええ!」
「おうよ!」

勢いに任せて僕たちはステージに飛び出した。
会場の視線がこちらに向けられる。

「俺たちは弾き語り部門だ!」正方寺が叫ぶ「俺たちのステージを見てくれぇ!カモン、平!」
その掛け声にあわせて僕はギターをかき鳴らす。その激しいストロークに促され、夢と希望のカクテルに酔った新入生数組が「ういーっ!」と拳を突き上げる。
6本の弦が暴れまわる。
その悲鳴にも似た響きをかき消すようにして僕は叫ぶ!

「うおおおおおおおおおおおおおお! 漫才やりまーす」
「って歌わないんかーい」

会場は一気に凍りついた。

それは1週間前の事だった。
「漫才にしようぜ!」新入生歓迎会の演目を決める席で杉田先輩が言い出した「普通に演奏したんじゃつまらないじゃん」
「いやいや、普通に演奏すべきですよ」僕は言う「だって弾き語り部門ですもの」
「没個性的だな平ちゃんは」杉田先輩は両手を広げてやれやれのポーズ「そんなんじゃ誰の記憶にも残らないよ? 記憶に残ってこその新入生勧誘だよ? そう思わない、ほーじくん」
「確かに…」正方寺は一人納得させられてしまった。
「そもそも誰がやるんですか。杉田先輩と五智先輩でやります?」
「私は、嫌だ」五智先輩がボソッと言う。
「だよな、ごっちん。俺だって嫌だよ。2年の二人でやってよ。台本は俺が書くからさ」杉田先輩が口を尖らせる。
「僕たちだって嫌ですよ。なぁ正方寺」
「俺、部のためならがんばるっす!」
「やめてよがんばらないでよ僕が巻き添え食うから」
いつも通りグダグダしている弾き語り部門

「相変わらずグダクダだな、弾き語り部門の諸君」

いつの間にか入り口の扉が開け放たれ、金髪の男が不敵な笑みを浮かべながら立っていた。軽音楽部の部長だ。周辺には取り巻きのサブカル系女子とロック系女子が数人、コバンザメみたいに貼り付いている。
「なんか用?」杉田先輩が言う。
「部長として、お前らの様子を見に来たのさ」腕を組んで扉の枠にもたれかかりながら上目遣いに僕たちを睨む。ちょっとした仕草がいちいちわざとらしいくらい決まっている「予想通り、ダサい発想の武道館ライブだぜ」しかし言っている意味はわからない。
多分、バカにしに来ただけなのだろう。
「そんなこと言うなら、俺たちの発表も軽音楽部と一緒にしてくれたらいいじゃないですか」正方寺がもっともな意見を出す。
「そこの二人が勝手な真似をしなけりゃ、俺だってそうしているぜ」軽音楽部として発表した昨年、出番のなかった杉田先輩と五智先輩はステージの外で盛大な乳首相撲を繰り広げ、新入生の失笑をかっていた。
恐らく今年の別発表は『え、弾き語り部? 何それ知らないよ? 勝手にやったんじゃない?』と真っ向から白を切るための布石なのだろう。
「まぁともかく」軽音楽部部長の咳払いで閑話休題「俺たちという美麗な花の香りに誘われて飛び立つであろうかわいらしい蝶達を、お前らのダサくて古臭い臭いで惑わせて欲しくないのさ」
「気をつけるよ」杉田先輩がニヤリと笑う。
「まぁ締め出されない程度に適当にやってくれたまえ」軽音楽部部長は踵を返す――と思いきやクルリとこちらを向く「正方寺くん、君はここにいちゃいけない人間だ。気が向いたらいつでも軽音楽部に来てくれ」
「絶対いかないっす」
部長は困った顔で肩をすくめると扉を閉めた。

「で、何の話でしたっけ?」僕はため息をついて三人を見渡す。
「新入生歓迎会は、漫才に決定だ」ソファーに体を埋めた杉田先輩が組んだ手のひらを見つめている「なーに、悪いようにはしないさ。みんな、俺を信じろ!」
珍しく気合の入った杉田先輩の言葉に、僕たち三人はただ頷くことしか出来なかった。

――信じなければよかった。

僕と正方寺が放つ漫才という名の凍てつく波動が会場を包む。

その氷点下の空気の中、新入生たちは肩を寄せ合い小さく震えながら、風雪のように吹き付ける言葉の天災を耐え忍んでいる。

ある者はその場に崩れ落ち、かろうじて動ける者は静かにその場を立ち去った。

彼らが自らの運命を呪い、ヒトに与えられし不可避なる原罪を絶望しはじめたころ、僕たちの漫才の幕が下りた。

誰もが疲れ果てた顔をしていた。
ただ一人、杉田先輩を除いては。

「いや、よかったと思う、私は、うん」部室に戻った僕たちを五智先輩が不器用な言葉で慰める「面白かった」
「いいですよ、もう……」僕は泣きたくなった。
「お役に立てず申し訳ないっす……」正方寺も肩を落としていた。

「いやいや、大成功だったよ!」杉田先輩が大げさな音をたてて堅あげポテトの袋を開けた「予想以上に破壊力だった!」
「下手な慰めはよしてください」僕は杉田先輩を睨む「全然盛り上がらなかったじゃないですか」
「いや、それがいいんだよ。それが」堅あげポテトをぼりぼりと咀嚼する「次に発表した部のやつら、氷点下まで落ち込んだ空気を盛り上げようとして、見事にスベってたもんね。あれは見ものだった」
「申し訳ないことをしたっす」正方寺がため息を吐く。
「あれじゃ、かわいいちょうちょも冬眠しちゃったんじゃない?」
「そうですね……ん、ちょうちょ?」
僕は真面目に目を通してなかった歓迎会のプログラムを見る。弾き語り部門の次の発表は一組だけ。

『軽音楽部』

「あ――」僕は口をあんぐりと開けた。僕たちはこの為だけに、あの茶番劇を演じさせられたというのか?
「やつらのスベってる姿、見たい?」杉田先輩がスマホを取り出しニヤリと笑う「イエーイとか叫んでるのに誰ものってくれないの。お葬式にロックバンドが乱入したみたいな不自然さだったね。あー痛い痛い」

文章と思想の檻

高校時代に友人と二人でやっていた遊びがあった。
それは「互いの小説に出てくる登場人物を演じながらメールをやりとりする」というものだ。
今思い出すといかにも黒歴史臭い遊びだが、お互いの小説世界に出てくる登場人物同士で新たな関係性が生まれ、自分の予期せぬところで彼ら(ここでは敢えて「彼ら」と表現する)の新たな一面が見えたりもした。
よく「キャラクターが勝手に動いて物語を作ってくれる」と表現されることがあるが、そのやりとりの中で本編とは関係ない様々な物語が生まれた。

最近の自分はどうか?
文章は以前より上達したような気がする。
でもその文章で描写された登場人物は、果たして自分の意志で動いているのだろうか。
それとも、僕に動かされているのだろうか。

僕の描いた結論に向かって、登場人物が無理やり動かされている。

この前H君にそんな感じの事を言われ、はっとした。
書いている身としてはそんな感覚は確かにあった。
しかし、読んでくれた人にまで、その感覚がはっきりと伝わっているとは――

思い返せば、久しぶりに小説を書くにあたって「自分の日々感じていることをどれだけ上手く表現するか」と、それを通じて最終的に「自分がいかに救われるか」だけを追求しすぎていた気がする。
登場人物は自分ではない。
自分だけが救われる話では意味がない。
ある意味そういうのを承知の上で書いていた部分はあったのだが、書き終えて初めて具体的に「それでは何がどのようにまずいのか」がわかった気がした。

登場人物の魅力のみに依存した小説では幼稚になる。
しかし登場人物が鎖につながれ骸と化している小説もまた面白みがない。

自分が手を加えるのは、登場人物の設定と、彼らが生きる世界の設定だけでいいのかもしれない。そこをしっかりと作り上げる事が出来れば、決まったレールを敷かずとも彼らは物語を紡ぎだしてくれるだろう。

僕の文章と思想が彼らの檻にならないように、ありのままの彼らを描写して行く。
今度はそんな小説を書いてみようと思う。

――などと、こんなことをウダウダ考えてられるのも、今自分が「一人暮らし状態」にあるおかげだったりする。

貴重なこの時間を有意義に使いたい。

どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~①

第1話「曇天大学軽音楽部弾き語り部門」

町外れの小高い丘の上に佇むこの私立曇天大学に入学して2回目の春が訪れた。
春は始まりの季節であり、変化の季節でもある。今までの自分という残雪は春の陽気に解かされ、芽吹く桜のつぼみと共に新たな僕への希望が膨らんでいく。
そんな詩的なことを考えながら、僕は部室の扉を開けた。
その扉に書かれた「卓球部」の札がバツ印で消され、「弾き語り部門」と下手糞な字で書かれたガムテープが貼られている事には、努めて目を瞑った。

「お疲れ様です!」いつもよりちょっと元気を出して、力いっぱい扉を開ける。

しかしそこには、桜が咲き誇る河川敷の外れに架かった橋の下に作られたダンボールハウスの中で第3のビールの缶を名残惜しそうに傾けている中年のおじさんが放つような、そんななんともやりきれない哀愁を含んだ空気が渦巻いていた。

曇天大学、軽音楽部、弾き語り部門部室(兼卓球部部室)。

それは、いつもと変わらない春だった。

僕の名前は平均(たいらひとし)。大学2年生だ。
名は体を現すという言葉を地でいっている僕はとにかく何かにつけて平均的だ。この弾き語り部門の活動に関しても、歌、ギター、ブルースハープなど、そこそこの楽器がそこそこに出来るというなんとも微妙な立ち位置である。

「おっ、平ちゃん乙」
ソファーに寝転がって堅あげポテトをがりがり齧っているのは3年の杉田三郎(すぎたさぶろう)先輩。この弾き語り部門のリーダー的存在だが、いつもヘラヘラしていて(自分が)面白いことを第一に追求するタイプだ。そして、この人が音楽活動をしている姿を僕は見たことが無い。

「おう」
そう一言だけ返したのは3年の五智哲夫(ごちてつお)先輩。床に胡坐をかいてアコースティックギターのチューニングを合わせている。寡黙で何を考えているのか良くわからない先輩だが、ギターの腕前だけは天才的だ。

「お疲れさまぁ」
椅子に座って音楽雑誌を読んでいるのは僕と同じ2年の正方寺陽介(せいほうじようすけ)。類まれなる美声と歌唱力の持ち主であり僕が新歓コンパのカラオケで発掘してきた逸材である。しかし本人は偉ぶることもなく、僕の期待に応えようといつも一生懸命に頑張ってくれる。

こんな僕たち4人が属するのが、軽音楽部の中に作られた一部門「弾き語り部門」である。

しかし、黙認されているとはいえ、僕たちの存在は軽音楽部から煙たがられているらしい。

一年前の春、大人気の軽音楽部にアコースティックギターを携えて入部した僕は、たくさんの友達に囲まれ、女の子にはキャーキャー言われ、男女数人のグループで夏はBBQ、冬はスノボに明け暮れ、オフの日は彼女と昼間までベッドでイチャイチャする――そんな明るい大学生活、いやキャンパスライフを送るものと考えていた。

しかし現実は違っていた。

自己紹介で僕が「アコースティックギターをやっています、好きなミュージシャンは『かぼす』です」と言った時の、軽音楽部部長の『やれやれ困った勘違いちゃんが入り込んじゃったよ』然とした表情は今でも忘れられない。
好きな音楽としてよくわからない洋楽バンドやインディーズバンドを挙げた人達が、サブカル系女子っぽい女の先輩にちやほやされる中、「あ、君はこっちね」と僕一人だけがこの部室に連れてこられた。

扉を開けた時の『僕の青春は今終わった』感はハンパなかった。

あの時も杉田先輩は堅あげポテトを齧り、五智先輩はひたすらギターチューニングを合わせていた。
「ここ、卓球部の部室って書いてありますが」
僕が尋ねると、杉田先輩がニコニコしながら「ここは卓球部の人にお願いして間借りしているんだよ」と教えてくれた。
最初はすごく優しそうな先輩だなぁと思ったが、後日、卓球部部長の恥ずかしい写真を脅し道具に、部室へのソファー導入を脅迫している姿を目撃してしまい「ああもうやっぱり僕の青春は終わってたんだ」と再認識する羽目になる。

あれから1年が経つのかと僕はしみじみ思う。
人間とは不思議なもので、どんな環境でも住んでしまえばそこに適応できるみたいだ。
最初のうちは「ちゃんと練習しましょうよ」と先輩たちに抗議していた僕だったが、気付けばこのダラダラした空間に感覚までもが侵食されてしまっている。
鞄から読みかけのマンガ本を取り出しながら、そんなことを思った。
多分正方寺も同じ様な心境だろう。弾き語り部門の建て直しを図って彼を引き入れたはずなのに、いつの間にかミイラ取りがミイラになっていた。

『僕の青春、これでいいのか?』

でも、この問いは今でも僕の心の中にある。小さくても確かに存在している。

「よーし、みんなそろったね」堅あげポテトの袋をゴミ箱に投げ込み、杉田先輩が立ち上がった「これからの俺たちの活動について、ちょっと話し合いたい事があるんだ」

これからの『活動』?

皆が手を止め、驚愕の表情で杉田先輩を見る。

こんな事は僕が入部して以来、初めてだった。

僕は運命の歯車が軋みをあげながら動き出す音を聞いたような気がした。
春の風に、暖かな日差しに、若葉の色に魔法の力があるとしたら、きっとこんなふうに唐突に、僕たちの生活を大きく変えていくのかもしれない。

空は青く、どこまでも澄み渡っている。

杉田先輩は細い目を見開くと、小さく息を吸い込み、言った。

「この部屋に空気清浄機をおきたいと思うんだけど、そのためには卓球部の部長を脅す新たな材料が必要になるんだ。みんな、協力してくれる?」

杉田先輩の鼻から鼻水が一筋の雫となって流れた。

それは死にかけの青春が流した、一粒の涙のようだった。

やっぱり、僕の青春は終わっていた。

そして――
弾き語り部門の、鼻水のようにダラダラとした一年が、また始まろうとしている。

お盆休みとこれから

今年のお盆休みもいつも通り実家に帰ったわけですが、なんと今回はスロぺ(スローペース症候群)の管理人2人(H君&O君)と会合という名の飲み会が開催されました!

H君からは、前回会った時(年末年始)よりも創作の面で「新たなステージへ踏み出したい」という強い意気込みが感じられました。ただ無駄な気負いは無く、冷静な自己分析の上で慎重に歩き始めているといった感じです。僕の小説にも色々とアドバイスをもらえました。

O君は普段通り自然体で、それでいて一歩一歩確実に先へ進んでいるといった印象でした。行き当たりばったりで生きている僕にはない堅実さがO君にはあります。いずれ書き上げるであろう彼の小説から、僕はきっと沢山の事を学べるような気がします。早く読みたいな。

H君とO君は性格の面では僕と正反対な部分が多いような気がしますが、しかしその違った目線で同じような物を目指しているというのがすごい。彼らの言葉は足つぼマッサージのように痛気持ち良く、僕の脳を活性化してくれます。

調子にのって飲みすぎて、最後は若干気持ち悪くなりました。
酔った上で言ってしまった数々の「調子こいた発言」については、どうか忘れてください。

そして休みも終わりアパートに帰還したわけですが、なんと妻と子供は今日から1週間、八戸の実家に里帰りしています。
つまり1週間の一人暮らし生活がスタートしたわけです。
なんかものすごい「自由」を感じながらこの文章を書いていますが、心の奥底では寂しくて仕方ありません。

多分明後日あたりには、涙で枕を濡らしていることでしょう。

一つ話を書き終えて

友人達に感化され再び小説のようなものを書き始め、
なんとか一つの話を完結させることが出来ました。

過去の話は、読んで頂いた方に少しは喜んでもらえるような「どんでん返し」みたいなのを意識して書いてましたが、
今回はそういう展開的な面白さにはあまりこだわらず、
「自分の感じたことをストーリーにどれだけ込められるか」
「それを文章としてどこまで出力できるか」
みたいな、自己満足かつ実験的な目的を掲げて書き始めた話になります。

正直「背伸びして書いたな」という印象はぬぐえません。

でも見えてきたものもいろいろとありました。


主人公である「藤巻」は社会人となり自己主張の場を失いました。
自分の価値が仕事に侵食され、仕事のみが自分を表現できる場となってしまった結果、
その仕事に適合できなかった彼は自分自身の価値を低くとらえ、「透明」のまま日々を生きています。

相反する存在として登場した官能小説家の「宮内」は、
家族の死をきっかけに「自分の思い出」がイコール「失われた家族の存在」と考え、
それを小説として世間に残そうと躍起になります。

紆余曲折を経て、藤巻は透明ではなくなった自分に気付きます。
自分の中にも強い感情が芽生えていることに気付きます。

私は仕事が嫌いです。
仕事で結果を出せない自分は価値のない存在なんだと落ち込んだこともありました。
ただ黙ってすべてを受け流して生きていこうと考え、
しかし自分が消えてしまうようなストレスで心が折れそうになりました。

そんな時、自分の価値を再認識させてくれたのは家族であり、友人たちです。
自分が心から「好きだ」と言える人たちの存在です。

この話は藤巻の中にそういう存在が生まれ、少しだけ救われる話、のつもりでした。
自分ん稚拙な文章でちゃんと伝わるのかは謎ですが…。


今度はもっとエンタメ性の高い話を書きたいなーと思っています。

今のところ本筋として構想段階だった「ミステリーっぽい話(推理ものとはまた違うけど)」のストーリーを練りつつ、
自分の大学時代を下敷きにした「ギャグ的ギター部活連載(一話完結)」を気晴らしに続けていこうかなと考えています。

なんというか、小説書くのを再開して感じました。

自己表現ってすっげー楽しいですね。



No.12 ウスバカゲロウの一種(幼虫)

庭の桜の木を眺めていると、何やらゴミ屑の塊みたいなものが歩いていた。

不思議に思い、それを掌に落として塊の開けてみる。

中から出てきたのは……アリジゴク?

ウスバカゲロウ幼虫

アリジゴクと言えばウスバカゲロウの幼虫で、
砂地にすり鉢状の巣穴を作り落ちた虫を捕食するわけだが、
なんでそいつが蓑を作って木に登っているんだ?

調べてみると、どうやらウスバカゲロウの仲間の幼虫は地面に巣を作らないタイプもいるらしい。

へー、なんか珍しいものを見た気がする。

朝っぱらからテンションが上がった。

透明という色-9

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 短かった夏が終わろうとしている。
 初夏の思い出を真夏の日差しが溶かし、空気中に漂う残滓で灰を満たしながら、藤巻は日常というゆるく張られた綱の上を歩き続けている。
 今日は日曜日だ。
 なべの底に残ったインスタントラーメンのスープを飲み干すと、藤巻は立ち上がりスタンドに立て掛けられたフェンダージャパンのテレキャスターを掴んだ。大学時代に藤巻がバイト代を貯めて買った相棒のエレキギターだ。ローズウッドの指板とスリートーンサンバーストのボディには白い埃がこびりつき、安物のライトゲージには茶色の錆が浮いている。戦死した英雄の剣を数百年後の未来に発掘したような感覚。
 弦を交換しレモンオイルで指板をふくとギターは再び息を吹き返した。アンプに繋ぎ、出力側にイヤホンを接続する。ゲインを絞り気味にしつつボリュームを回していくと、ジャキジャキとした軽快な音になる。
 藤巻は久しぶりに曲でも作ってみようかと思った。
 自分の心の中に存在する感情を表現するための曲――この曲が出来た時、もしかしたらそれを伝えるべき人がひょっこり現れるかもしれない。
「藤巻君、なかなかいい曲つくるんだね」
 少し上から目線でそう言って笑う彼女の姿が頭に浮かぶ。
 この曲に対する応えが藤巻の期待する応えと違っていたとしても構わない。
 感情や意思を表現する事が、自分の周りを作り変えて行くのだから。
 
 夏の終わりの空を見上げる。
 今の藤巻の心情に、その色はぴったりと合わさった。

 人は皆異なる色合いの意思を持つ。
 そこに透明という色はない。

【完結】

透明という色-8

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 藤巻が中心となって進めるはずだった大手顧客への新規営業のプロジェクトは、後輩の手に移ってからも滞りなく進み、そのサポートという名の雑用として四苦八苦する毎日が続いている。
 透明な藤巻はいつも通り自分に注がれる憐憫や軽蔑の視線を透過し、そこにいないものとして苦痛の雨が降りそそぐ日々をやり過ごしている。
 そして彼は久しぶりに泥棒を再開した。
 背後に田園が広がる古い住宅街では夏を待ちわびた虫たちの声が鳴り響いている。その声は耳を傾けると頭の中に響き渡り、意識を逸らせば波が引くように消えていく。
 大きな桜の木が植えられた民家の庭に忍び込み、木の上から二階のベランダへと乗り移った。無用心にも網戸になっている窓から部屋の中を伺うが、8畳ほどの和室に人の気配は見受けられなかった。そっと窓を開けて家の中に忍び込む。和室のドアを静かに開けると鼠のように俊敏に隣の部屋の前へと移動し中を覗き見た。そこは書斎のようだった。プレッシャーから心臓が高鳴り心に凝り固まった昼間の不満や不安を血液と共に押し流してくれる。その間隔が藤巻には心地よかった。書斎に入ると小さな本棚と学習机が置かれていた。その上にある何か無価値なものを今日の戦利品として頂戴しよう。そう思って学習机の上を見る。そこには一冊の単行本が置かれていた。
 作者名、宮内綾子。
 藤巻の視線はその本に釘付けになった。
 宮内アヤカ――本名、宮内綾子はあの晩を最後にこの世界から姿を消した。
自宅に置かれていた遺書から自分が海に身を投げる旨と、出版予定の本については予定通り出版を勧めて欲しいとの旨が記されていたため、出版社は故人の意思を尊重するとの名目で本の出版を進めた。本の帯には宮内綾子の生い立ちを悲劇的に脚色した紹介文が書かれ、そのペンギンが吐き出したオキアミのような臭い立つ文面に藤巻は嫌悪を感じた。
 彼女の死体は見つかっていない。
 生死不明の状態のまま、彼女の失踪は死という結論を持って収束した。
 その悲劇的な死を覗き見たい人々が、他人の悲しみに浸ることで平凡な日常に意味と少しの優越感を見出すためにその本を買いあさり、一時期は本屋の人気本ランキングに記載される事もあった。その時の勢いは無いにせよ、今でもこの本は売れ続けている。
 結局、宮内アヤカの思い通りにことが進んだわけだった。
 藤巻はガラス玉のような目で彼女の本を見下ろしている。
 あの夜に彼女は「透明じゃなくなるおまじない」と言って藤巻の唇に唇を合わせた。あれから何かが変わったようでいて何も変わらない自分がいる。結局自分は透明なままで、自分の意思や感情ですら表現できずにいる。
 彼女は自分の中に渦巻く感情を表現するためにあれだけの行動を取った。
 その行動自体は決して褒められることではないが、彼女のように自らの命を賭してまで多くの人に表現したいことが自分にあるだろうか。
 そこまで大それたものではなくてもいい。小指の先に乗るガラスの欠片程度の輝きでもいい。自分の中に確固たる感情はないのだろうか。
 何も無いのかもしれない。
 だから自分はまたこんなふうに透明になっている。
 彼女の本の表紙に触れた。

 心が波打った。

 ドアの開く音がした。
 照明が点けられる。
 振り向くと中年の女性と目が合った。
「泥棒!」
 女性は叫んだ。
 藤巻の頭は混乱した。『何故見つかった?』そんな疑問が頭を過るがその疑問の答えをいちいち思案する暇などあるはずがない。書斎の窓に手をかけ外に出る。ベランダは和室側とつながっている。侵入の時に利用した桜の木駆け出し助走をつけて飛び移った。木の幹のきしむ音と緑の葉を揺らす音が真夜中の住宅街にいやに大きく響いた。
「誰か! 泥棒よ! 捕まえて!」
 ベランダの手すりから身を乗り出し藤巻を指差しながら女性は大声で叫んでいる。これが普通の反応だよなと藤巻は思った。あの日の彼女の反応は異質すぎたんだ、そんなことを考えながら木の幹から滑り落ちる。めくれた木の皮が指に突き刺さって鋭い痛みを感じるがそんな事に構っている暇はない。前のめりに転びそうになりながら走り出した。背後では女性は叫び続ける。近隣の住宅の明かりが次々に灯りカーテンの向こう側に人の影が覗く。極力顔を見られないように着ていた黒いパーカーのフードを目深にかぶり、女性に自分の顔を覚えられてないかどうかを若干気にしながらも藤巻は全力で夜の街を駆け抜けた。
 息が上がる。
 足がだんだん鉛のように重たくなる。
 しかし頭だけはやけに鮮明で『何故見つかったのか』その疑問の答えをグルグルと考え続けていた。
 侵入も移動も物音一つ立てていなかったはずだ。自分の行動に抜かりがあるとは思えない。藤巻は今までの数十回の泥棒でいくつかの危機的状況を経験しているが、結果として家主に見つかるような事はたった一度の例外を除いては一度もなかった。偶然という不確定な要素は確かに存在するが、自分自身の特性がそれを回避できるものと確信している。
 
 自分は透明だ。

『藤巻君が透明じゃなくなるおまじないをかけてあげよっか』

 藤巻の頭にあの夜の宮内の姿が浮かんだ。
努 めて思い出さないようにしていた宮内アヤカとの記憶があふれ出した。

 心臓が高鳴り、わき腹に鈍い痛みを感じる。溺れたように顎を上げ大きく息を吸い込むと、落ちてきそうなほど大きな満月が目に映りこんだ。
 彼女の少しだけかすれた声。
 細くひ弱な肢体。
 草食動物のような黒い目。
 白く透き通る頬。
 絹のような髪。
 氷細工のようにか弱い身体に秘めた炎のような意思。
 照れたような笑顔。
 少し意地悪そうな笑顔。
 藤巻の目を真っすぐ見て言った「ありがとう」の後の笑顔。
 また会いたいと思った。
 そう思った瞬間、彼女の喪失が初めて実感となって藤巻の心を襲った。自分の心の中にこれほど強い感情が眠っていた事に藤巻は驚く。いや、眠っていたのではなく自らの手で蓋をしていただけだ。
 会いたい、会いたい、会いたい、会いたい。
 彼女はこの事を知っていたのだろうか。
 知っていたから、あんなおまじないをしたのだろうか。
 走りながらあふれ出てくる涙を右手の袖で拭う。
 自分の中に沸き起こる得体の知れない感情はごくごく単純なものだった。長い間忘れていたために気付かなかったが、それは本当に自然で、しかし何よりも強い感情だった。
 自分の中に宮内が存在している。
 檻から抜け出し殺風景な何もない荒野に立った彼女は、ひび割れた地面を耕し、種を植え、水を撒いた。やがてそのうちのいくつかが開花し、透明だった藤巻の心に彩を加えた。
 
 表現したいものがあった。
 確固たる感情もあった。
 いつの間にか自分は、透明ではなくなっていた。

 黄色く輝く月は遠く手で触れる事は叶わない。しかしそこには確かに存在している。
 そんな類の色が、藤巻の心にも存在していた。

-9 に続く

透明という色-7

-6 に戻る

 ドアを開けると彼女が立っていた。
 玄関から漏れる明かりが深夜0時の闇と溶け合う。薄い化粧の影響なのか、柔らかな色合いの花柄のワンピースの影響なのか、光の中に立つ宮内の表情はいつも以上に明るかった。ドア枠に区切られた一角だけが別世界の入口のようで、彼岸の世界に立つ彼女と此岸の世界に立つ自分を明確に分けていた。
 スイッチ一つで別世界は闇に覆い尽くされる。
 闇の中から彼女がゆっくりと歩み出てくる。
 その足がドアの敷居を跨いだ時に、藤巻は再び不思議な感傷にかられた。外界に踏み出した足が白い光の粒となり霧散してしまうような想像が脳裏を掠める。咄嗟に制止の声を出そうとして、無理やりその声を飲み込んだ。
 彼女が外の世界に立っている。
 それは当然の事なのだが、藤巻にとってその姿は動揺を誘うものだった。
 彼女は今、家族との最後の思い出とも言えるこの家から切り離された。支えを失った彼女は糸の切れた風船のように天高く舞い上がり、やがて気圧の変化で膨張し、破裂する。
 そんな感傷を一笑するかのように宮内は微笑みながら「いこう」と言った。

 軽自動車が手入れの行き届いていない県道を走り出す。
 紙のように貧弱なシャーシに蹴り上げられた小石が当たり、エンジン音のベース音に軽快なドラムスが加えられる。オーディオの再生ボタンを押すと、とあるロックバンドの曲が再生され車内は音の飽和状態と化す。
 しかし助手席の座る宮内の事を意識すると、それらの音は藤巻の耳から遠ざかっていく。この異様な光景に現実感を持てない自分がいる。
 車が国道に入るとドラムスの音が弱まった。
 宮内は車で30分ほどのところにある海岸を目的地として伝えた。海開きすれば多くの海水浴客が訪れる近場のちょっとした観光地だが、この時期のこの時間帯であれば黒い海岸に黒い海が広がっているだけだろう。そんな場所になんの用があるのか、藤巻は疑問に思った。
「こんな時間にこき使っちゃったごめんね」宮内はヘッドライトの照らす歩道の白線を見ながら言う「タクシーを使ってもよかったんだけど、後々面倒な事になりそうだから」
 何が面倒なのかよくわからなかったが、藤巻は頷いた。
「こんな時間に、何をしにいくんですか?」藤巻は何の気なしに尋ねる。
「うん、死のうと思って」
「そうですか」藤巻は頷いた「確かにあそこは今の時期誰もいないですからね。うってつけです」
 言葉の意味を飲み込むのに時間が掛かった。いや、意味はわかったのだが、その言葉の持つ意味と隣に座る女性をイコールで繋げる事に時間を要したといった方が正しい。だから藤巻は何の疑念も迷いもなく、その言葉の持つ意味に対して適切と思われる返答をしていた。
 しばらくの沈黙の後、言葉の持つ意味と宮内とがやっとイコールで繋がった。
「今なんて言いました?」藤巻は聞き返す。
「劇的に、海に身投げしようと思って」宮内はスーパーに食パンにでも買いに行くような気楽な言い回しで答えた。
「身投げって、死ぬってことですか?」
「うん、さっきからそう言ってるじゃんか」宮内は不満そうな口ぶりで言う。
 車が路肩に急停車した。
 ヘッドライトを消し、ハザードランプをつけると、黒いアスファルトが断続的に白く照らされる。目的地である海からの連想で灯台の明かりみたいだなと藤巻は思った。
「ちょっと、なんで停まるのさ」明らかに不満の篭った声で言う「明るくなる前には着きたいんだけど」
「いや、停まりますよ」藤巻は車内灯をつけて宮内を見る。口先をつんと尖らせている彼女の表情からは注文したショートケーキが乾パンに化けたような不満感が見て取れる。その無邪気な、他意のない表情に藤巻は面食らった。
 自暴自棄になっているのかと思った。
 小説を書き上げて目標を失ったからかもしれない。
 天国の二人に会いたい、そんな感傷からくる衝動かもしれない。
 それとも昼間に自分が行った行動が深く彼女を傷つけてしまったのだろうか。
 色々な考えが頭を巡るが、そのどれもが的外れである事は彼女の表情を見る限り明らかだった。
 彼女は純粋に死を望んでいた。
 いや、その死の先にある何かを、望んでいる。
「別に、軽はずみに命を捨てようとしているわけじゃない」宮内は怪訝そうな藤巻の顔を覗き込む「ここで私が死ぬ事で、私たちは少しでも長く生き続けることが出来るだろうから、私はそうするの」
 相変わらずこの女性の言い出すことは意味不明だ。藤巻は自分の顔を覗き込む女性の頭を両手で鷲掴みにして乱暴に揺さぶってやりたい感情と、同じように自分の頭を揺さぶって混線してしまった思考の糸を強引に振り解きたい感情が、天使と悪魔、いや悪魔とまた別の悪魔となって自分の周りを飛び回っているような気がした。
「藤巻君は、人はどんな時に死ぬと思う?」宮内は問う「他人の記憶から自分という存在が全て消えたとき人は本当に死ぬってよく言うけれど、私もその意見には賛成なんだ。私のこの身体も、心も感情も、何もしなくたってあと数十年で消えてしまう。運が悪ければ、今日明日にだって消えてしまうかもしれない」不慮の事故で亡くなった夫と娘の事を言っているのだろうか「そうなってしまったら、私という人間の風化を止める事は絶対にできない。私の親類や、仕事関係者や、友人や、そして藤巻君が死んでしまったとき、私という存在は完全に消えてしまう。記憶っていう不確かな媒体のみで存在するってのはそういうことでしょ」
「確かにそうですけど」と藤巻は言う。しかし今の説明では肝心の部分に応えにはなっていない「でもなんで今死ななきゃならないんですか?」
「私の本、売れると思う?」
 質問に質問で返されて藤巻は少しの苛立ちを覚えた。宮内に対しての苛立ちをいうよりも、彼女のペースに呑まれてしまう自分自身に対する苛立ちのような気がする。このまま霧にのみ込まれて、離してはいけない風船の紐を手放し見失ってしまいそうな恐怖が根底に存在している。
「本という媒体は優秀だよ。保存状態が良ければ何十年も形として残るし、何度だって複製を作り出すことが出来る。複製を繰り返せば半永久的に存在することが出来る。私はあの本に私――私たちのすべてを記したつもり。それが半永久的に存在することが出来るなら、私たちは半永久的に存在し続けられるのと同じことじゃないかな」でもね、と宮内は少し表情を曇らせた「私は所詮売れない官能小説かなんだよ。今回は運よく本を出すことが出来るけど、それだって全く売れなければ絶版になる。そして多分、私の本は売れない」
「そんなことないですよ!」藤巻は声を荒げた。ここが彼女の決断理由の根底部分だと感じ、この考えを正せばこの馬鹿らしい議論を終息させることが出来る。それに自分の感情をあれだけ波打たせたあの小説を卑下された事に対する反感もあった。
「いや、売れないよ」宮内は藤巻の目を見て言い切った「藤巻君は私という人間を知った上であの本を読んだからそう言えるんだと思う。でもこんな不幸なんて何も私に限った事じゃない。家族を失った作家が家族の死を題材にした本を書いたから、出版社の偉い人たちは金の臭いを感じたのかもしれないけど、同じ様な作品はこの世界にいくらでも存在しているよ。私なんて名前の売れてない苔の生えた石ころみたいな官能小説家だから、そんなやつの書いた小説なんて誰も手に取ってくれないと思うんだ。それじゃあ私の本はいずれ絶版になり、消え去るよ。私という存在は冬のため息みたいに、あっという間に消え去ってしまう」
 対向車線を走る車のヘッドライトが彗星のように流れていった。
 無性にタバコが吸いたくなった藤巻は宮内に断る事も忘れ運転席側と助手席側の窓を開ける。国道の路肩に群生するススキみたいな植物やクローバーみたいな植物が放つ青臭い匂いが助手席側から流れ込んできた。生物の生きている匂いだ。生きた匂いが充満した車の中で、植物の死骸を束ねたものに火をつける。死んだ生物の匂いが生きた匂いを覆い隠した。
 死の持つ力は絶対的だ。
 たとえどんな生き方をしたとしても、死とそれによる忘却から人は逃れる事が出来ない。
「そうならない為に、私はこれから海に身を投げる。そのスキャンダラスな出来事が、いい意味でも悪い意味でも私の小説の表紙に貼り付けられる。凶悪殺人犯の手記が売れるみたいに、家族の死を悼み自殺した小説家の生前に残した小説は多くの人の目に留まるよ。人は『死』を遠ざける一方で、どうしてもそこに惹かれる部分があると思う。他人に対して死を行う者、自分に対して死を行う者、そういう普通は禁忌とされる世界へ踏み込んでしまった者たちを思考や感情について、両手で目を覆いながらも指の間から目を血走らせて覗き見たいっていう欲求が人間にはあると思うんだ」
 タバコの灰が運転席の窓から地面に落ちた。
 火が消えた時、助手席の窓側からまた生きた匂いが流れ込んできた。その香りは死の匂いによって萎縮していた血管を優しく解しながら鼻腔から脳内へと流れ込む。
 死によってより際立つ生もあるのかもしれない。
 記憶を焼き付けるために写真を燃やす。
 自分たちが存在し続けるために自分を消す。
 その逆説的な考えは恐らく狂人の所業だろうが、その言葉や意思の持つ赤く鋭い鮮やかな爪は藤巻の心に深く突き刺さった。目の前の暗がりに座る小さく華奢な狂人の白い頬が月の光に照らされ美しく浮かび上がった。
 車は再び走り出した。
 藤巻は納得したわけではない。ただこのままここに留まり続ける事に罪悪感を覚え始めていた。彼女の持つ怪しく輝く青白い月のような決意に泥を浴びせかけるような、そんな種類の罪悪感が右足をアクセルに向かわせた。
 国道をしばらく走り、コンビニの側の信号を左に曲がる。少し小高い丘を登りきって下り坂に入ると右側の視界が急に開けた。
「海だ」
 海に近い町に住む藤巻にとってそれは何の変哲もない光景のはずだったが、そう呟いてしまったのは夜の海の持つ底なしの黒さと、この場所が自分にとって運命的な場所になるかも知れないという予感からだった。
「ありがとね」
 宮内もまた呟いた。視線は運転席側の窓から黒く広がる海を見ている。
 車は海沿いの道の路肩に停車した。ところどころ外灯はあるが付近に人の気配は全くない。道の右側は土手になっていて、数十センチ下ったところから砂浜が広がり海へと続いている。砂浜には骨組みがあらわになった海の家が真夏の賑わいを待ちわびるようにぽつぽつと並んでいた。こんな寂れた場所が夏の訪れと共に喧騒の飛び交う賑やかな場所へと生まれ変わるのだから不思議だ。
 死んでしまったように、終わってしまったように見えても、それは次の命に向かう休憩期間なのかもしれない。
 人の命だってそれと同じだ。
 藤巻は自分が感傷的になっている事に気付いたがそれを嗜めるつもりはなかった。
 この場所に論理的な理性の箍など必要はない。あってもすぐに抜け落ちてしまうほど夜の海は深く優しく幻想的な黒で二人を包んでいた。
「本当はさ」海を見ながら宮内が口を開く。海の匂いのするやわらかい風が吹いた「藤巻君が私の小説を褒めてくれて、私すごく嬉しかったんだ。私の話に――私たちが歩んできた歴史にこんなに真っすぐに向き合ってくれて、良かったよって言ってくれる人が出来て、これでいいのかもしれないって思ったんだ。たった一人だけでも、本当の私を見てくれる人が居てくれるんなら、私はそれで満足なのかもしれないって、そう思ったんだ」
 藤巻もまた海を見ている。
 波の音と宮内の声が重なり合い一つの音楽作品のように空気を揺らす。
「――でもさ、やっぱりダメだ。それだけじゃ満足できないって、私の心が言ってる。欲張りだよね」片手を胸に当て照れ笑いを浮かべた。藤巻の方の高さに宮内の頭がある。右下に視線を落とした藤巻は宮内と目が合い、つい目を逸らしてしまった。
「俺は、宮内さんがいなくなったら俺は――」その後が続かない。心の中の檻に何か得体の知れない生き物が存在していて、宮内がいなくなるという未来を想像するとその何かが暴れまわるのだが、藤巻にはそれが何か説明できなかった。
 くすっと宮内が笑う。
「藤巻君が透明じゃなくなるおまじないをしてあげよっか」唐突に宮内が言う。
「え?」
 宮内の方を見た藤巻の口に柔らかいものが触れた。
 波の音が聞こえる。
 この海の中にはどれだけの数の命が存在し、今この瞬間にどれだけの数の命が消えているのだろう。
 その中の一つに目の前の女性が加わる。
 いくつもの命の光がまるで花火のように天へと向かって流れ、弾ける事無くそのまま空へと吸い込まれていく。
「はい、これで藤巻君はもう透明じゃないよ」
 ほんの一瞬がものすごく長く感じられた。
「これは天国のあの人には内緒だよ」
その長いすぎる一瞬が藤巻の中で風船のように膨らんでいく。
「じゃあね、ばいばい」
 その内圧によって藤巻の心の檻が押し広げられる。
「本当に、ありがとうね」
 檻の格子にひびが入り壊れた。
 立ち尽くす藤巻に背を向け、宮内は海岸沿いを歩いていく。その先に見える岬では灯台が闇夜を照らしていた。呼吸のように規則正しい間隔で光が流れては消えていく。寝息を立てる巨大な怪物に飲み込まれるように宮内は闇と溶け合っていく。
 呼び止めるべきだと思った。
 しかし呼び止めるべきではないとも思った。
 これは彼女自身がやりとげる事を望んだ事だ。それを辞めさせる権利など自分にはない。
しかし――心の中に巣くう生き物の叫び声が藤巻の耳にはっきりと届いたが、全てはもはや手遅れだった。
 宮内は闇の中へと消えていく。
 藤巻はただそれを無言で見送った。
 後には波の音だけが残った。

-8 に続く

透明という色-6

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「そっか」宮内アヤカは呟いた。短い言葉ながら満足そうな面持ちだ。
 一週間後の休日の昼下がり、藤巻は小説を読んでの感想を彼女に伝えた。伝えた感想は小説についてのみで、その先に漂っている得体の知れない不快な感情についてはもちろん伏せてある。
「あ、コーヒーのおかわり、いるよね?」指先で頬を掻きながら照れたように笑うと宮内は立ち上がった。長袖のTシャツと白いタイトなズボンが彼女の身体のラインを浮かび上がらせている。こんなに貧弱な身体の奥底にあれだけの意思が渦巻いている不自然さを、藤巻は改めて実感した。短い髪を頭の後ろで強引に結っていて、その柔らかそうな毛先は彼女の意思を鮮やかに描き出す絵筆のようにも見える。
 キッチンへ向かう後姿を見つめながら、藤巻は彼女の中に自分自身を重ね合わせた。身の丈に合わない服を着たような違和感に惹起され、あの夜の不快感が首をもたげる。
 コーヒーとクッキーを載せたお盆がテーブルに置かれる。
「これ、この前と同じクッキーだけど、いいかな? 賞味期限は問題ないよ」宮内はそそくさとコーヒーを藤巻の前に並べると、クッキーを一枚手にとって齧り始めた。げっ歯類の小動物を思わせるような仕草だ。そんな彼女の仕草に、自分の望んでいた感想を聞けた喜びと、小説という形で自らの内面を垣間見た人物に対する気恥ずかしさのようなものが同居しているように感じた
 藤巻もコーヒーに口をつける。
 宮内はクッキーをコーヒーで流し込んだ。
 時計の音と、クッキーを咀嚼する音だけが聞こえる。
「あのさ」静寂の水面に小石を投げ込むように宮内は言った「藤巻君は、なんで泥棒なんてはじめたわけ?」
 それは至極当然の質問だった。むしろ今まで何故その話題に触れられなかったのか不思議なくらいだ。そしてその質問は図らずも、藤巻の内面に漂う靄に触れた。
「何か生活に困っているとか?」そんな風には見えないけど、と宮内は神妙な面持ちで藤巻を眺めながら言う「どちらかというと、真面目というか、気弱そうというか、犯罪行為を行うような容貌ではないよね」
「けっこうズバズバ言いますね」宮内の歯に衣着せぬ発言に藤巻は苦笑いを浮かべる。
「ああ、ごめん」恐らく照れ隠しも相まっての饒舌だったのだろう。宮内はばつが悪そうに頭をぺこりと下げた。
「泥棒に――こんなこと言うのも良くないですけど、泥棒行為に大した目的はないんです。ほんの少しのストレス発散と――」そこで言葉が詰まる。ストレス発散の他に一体何があるのか、それ以外の理由など無いはずではないか、頭の中ではそんな自問自答を繰り返すが、口は勝手に別の言葉を呟いていた「自分は、透明だから」
「透明だから、か」宮内はその答えが返ってくるのを予知していたかのように、一見すると意味不明な返答を自分の思考の中へと滞りなく落とし込んだ。
 一方の藤巻は自分が無意識に口走ってしまった言葉に動揺した。透明だから、何だというのだ。それは泥棒の手段を得ているというだけであって、それをする理由ではない。銃を持つ事が人を撃ち殺す理由にならないように、透明であること自体が泥棒の理由には成りえない。
 矛盾している。
 その矛盾を打ち砕くように、宮内ははっきりとした口調で藤巻に問う。

「本当は、誰かに見つけて欲しかったんじゃないの? 自分が透明じゃない事を、誰かに見つけられる事で実感したかったんじゃないの?」

 その言葉は注射針のように的確に藤巻の皮膚の内側に入り込み、注入された薬液は痛みを伴いながら血液へと注ぎ込まれた。
「違う」藤巻は言った。しかしその言葉は反射的なもので、感情を伴わない言葉は枯れた落ち葉のように風に舞った「俺は透明になりたいんです。透明な俺は、誰にも干渉せず、誰からも干渉されない」舞い落ちた木の葉を踏みつけるような微かな声だった。
 この世界は様々な目に満ちている。
 価値を評価しようとする目、見下そうとする目、無様だと蔑む目、蔑むことで安心感を得ようとする目――悪意のこもった様々な目の集合体が、子供の頃絵本で読んだ怪物のごとく神出鬼没に出現しては消える。
 そんな恐ろしい数多の目から逃れるためには、透明になるしかなかった。
 色を持たない冷たい氷の板となり光を透過させることで、不気味で悪趣味な目の怪物から認識されないものへと生まれ変われるはずだった。
 誰にも認識されず、干渉しない存在。
 人に触れられれば水になり流れていく、形なく捉えどころのない存在。
 そんな存在になれたはずだった。
 そして、そんな存在になる事を、自分は心から望んでいたはずだった。
 しかし目の前の女性は――透明で儚い氷細工のような外面の内側に、激しい色合いの意思を持った宮内アヤカは、藤巻の言葉に疑問を投げかける。薄い氷の張った静寂の水面に、大きな石の――意思の塊を投げ込む。
「透明になれる人間なんて、私はいないと思うよ」
 氷が割れ、感情が波打つ。
 感情の割れ目から、彼女の小説を読んだときに感じた不快感の正体が顔を覗かせた。
それは子供の頃の自分の姿だった。
自分はいつか消えてしまうんじゃないか、自分が消えてしまってからも世界は何も変わらないのではないか。そんな事を考えて怖くて眠れなくなり、布団の中で震えていた夜。誰かに認めて欲しくて、誰かに自分の存在を感じて欲しくて、誰かに抱き締めて欲しくて――しかしその感情を表現することが出来ず、幼い自分は鼻水を垂らしながら不細工に泣いていた。
無理やりに自分の感情を押し殺し、何もなかったような顔で朝を迎える。
しかし誰かに、自分の悲しみに気付いて欲しかった。
やがて藤巻は宮内アヤカに出会った。彼女は藤巻にとっての理想だった。狂おしいほどに激しく自分の色を、意思を、小説というキャンバスへとぶちまけているその姿に、藤巻は畏敬の念を覚えていた。
そしてそんな彼女も昔は透明だった。今の藤巻と同じだった。彼女なら自分を見つけてくれるかもしれない。自分を認めてくれるかもしれない。そんな期待が藤巻の心に釣り針のように食い込み、自分を影のある不透明な世界へ引きずりだそうとする。
だが心のどこかで薄々気付いていた。
だが彼女の目に、自分が映る事はない――それをあの小説を読んで思い知らされた。
宮内の目は藤巻を見てはいない。
これは幼稚な感情だ。子供の我侭のように矛盾に満ちた浅ましい感情だ。しかしその感情は毛虫が緑の葉を蝕むように、藤巻の思考回路を侵食していく。
藤巻は立ち上がった。勢いで倒れた椅子が、大きな音を立ててフローリングを転がった。
 自分は「透明じゃない」と目の前の女は言う。
 しかしこの女にとっても、自分は透明な存在のはずじゃないか。
その証拠にこの女の目には、目の前の自分を透過してその向こうの空間に漂っている亡き夫と娘の思い出しか見えていないじゃないか。
 自分がどれだけ見て欲しいと願おうとも、彼女にとって自分は単なる泥棒に過ぎないではないか。
 繊細な彫刻を打ち砕きその破片が飛び散るさまを楽しむような、美しい絵画の上に赤い絵の具を染みこませた絵筆で何本も線を引くような、自暴自棄で破滅的な感情が膨れ上がり藤巻を突き動かす。
 目の前の女を盗んでやろう、そう思った。
 どうせ自分は透明な存在だ。
 何をしようとも、気付かれる事などあるはずがない。
 透明な自分は、誰に干渉することも出来ない――
 藤巻は無言で宮内の前に立った。不穏な空気を察知した宮内もとっさに立ち上がる。距離を取ろうと背を向けた女の手を男の手が掴み強引に引き寄せる。バランスを崩し倒れ込む彼女を受け止めながら、二人は床に転がった。
 逃げようとする宮内の上に藤巻は圧し掛かる。
 彼女の体は小さく華奢で、本当に氷細工のようだった。
 しかしその身体は氷ではない。
 彼女の肌の温かさに一瞬の戸惑いを覚えるが、黒くドロドロの感情がそれを包み込んだ。
 柔らかな暖色を湛えた裂け目に自分の唇を近づける。
 クッキーの甘い匂いがする。

 幻想と妄想の気泡がはじける乾いた音が響いた。

 左の頬に衝撃を受けて、壊れかけの機械はねじが外れたように動きを止めた。室内に充満していた空気が際限なく拡散し真空状態と化した部屋は、衣擦れの音さえ聞こえないほどの無音に支配される。時間さえ止まったような気がした。
「どうしたのさ」唇を震わせながら宮内は言う「いきなり、それはないんじゃないかな」
 藤巻は何も答えられなかった。頭蓋の中に真水を流し込まれたかのように思考が希釈され何も言葉が浮かんでこない。自分の行動の真意を自分自身が掴めないでいる。自分の身体が自分以外の意思に支配された――そんな言い訳でお茶を濁したい衝動に駆られたが、それは自分自身さえ騙せない紙みたいに薄っぺらな誤魔化しだ。
 自分は本当に壊れかけているのかもしれない。
「ごめんね」仰向けに倒れた宮内は自分を覆う藤巻の左頬に手を当てる「私、勢いにまかせて酷い事言っちゃったのかもしれないね。ごめん、私、空気読めないから、たまにこんなふうに人を傷つけちゃう」
 それは違う、と藤巻は思う。しかし口の中が乾いて舌が回らない。口を噤んでほんの少しだけ染み出してくる唾液を舌に絡める。早く何か言わなければならない。
 しかし言葉より先に、宮内の頬に何かが落ちた。
 思考を希釈した液体の成れの果てが滴り落ちている。
 それが自分の目から流れ出ている事に気付き、いよいよ自分も完全に壊れてしまったなと藤巻は思った。服の袖で液体を拭うがそれはとめどなく流れ出てきた。
「さみしかったんだね」宮内は問う。
 藤巻は反射的に頷いていた。
「自分が、透明だと思い込んでいたんだね」宮内は薄く微笑む。
 頷くたびに液体が目から滴下した。
 宮内は藤巻の右手を掴むと、その手のひらをそっと自分の左胸に押し当てる。固い下着の向こう側の柔らかな感触が伝わる。
そしてその更に奥で強く早く脈打つものの存在を藤巻は確かに感じた。
「藤巻君が透明だなんて、誰にも干渉しないなんて、そんわけないよ」宮内は藤巻の目を見つめながら言った「私の心臓のドキドキしている音、感じるでしょ」
 宮内アヤカの頬が赤く染まり、その目が微かな潤いを湛えていることに藤巻は気付いた。
 瞳の中に誰かが映っている。
 それが自分の顔である事に気付き藤巻は安堵した。
 救われたような、そんな気がした。
「君は、本当は透明じゃないんだよ」宮内は繰り返す。優しく包み込むような声だった「君の声も、表情も、意思も、私にはきちんと見えているんだからさ」
 
 窓の外を重低音を響かせた車が走り抜けていく。
 
 藤巻は彼女の声以外の音を久しぶりに聞いたような気がした。
 止まった時間は動き出している。
 世界は元の姿に戻っている。
 藤巻の背後の窓から西日が射し込んでいる。熱を上げつつある初夏の日差しは、藤巻を透過する事なく彼の背中を温める。黒い影が仰向けに横たわる宮内の体を包み込んだ。
 自分は、今、この場所で、透明ではない。
 それだけで十分なような気がした。
「それで、いつまでこのままでいるのだろうか」宮内は照れ笑いを浮かべながらばつが悪そうにいう。
 その言葉でやっと、自分のしてしまった行為の重大さ、浅ましさに気が付いた。とっさに右手を宮内の左胸から離す。思考が涙となって抜けきり空っぽになった頭の中へと、頭上を漂っていた正常な意識が流れ込んでくる。
「……すみ、ません」声が不明瞭な言葉の形をなして藤巻の口から放たれた。自分のしゃがれた声は酷く場違いなもののように感じた。
 ゆっくりと体を起こすと立膝の状態で宮内から離れる。
 宮内は上体を起こし、ずれてしまった後頭部のゴムをはずした。短い髪が花のように広がり赤く上気した彼女の頬を隠した。
「いいよ、未遂で終わったんだし」宮内はしばり癖の付いた後頭部の髪を撫で付けながら言う「なにもなかったんだよ」
 何も無かったわけがない。自分の行った背徳行為に対する罪悪感が今さらになって体の底から湧き上がってきて、藤巻は額の地面にこすり付けたいような気分だった。
 その気持ちを知ってか、宮内はいたずらっぽく笑うとこう提案する。
「――じゃあさ、お詫びのしるしにと言っちゃなんだけど、一つ頼みがあるんだよね」膝を抱えた座る宮内が上目づかいで言う「今夜、連れて行ってほしいところがあるんだ」
 意外な要望に藤巻は面食らう。
「藤巻君、車持ってる?」
「軽自動車なら」
「それで十分」
「遠いところなんですか?」
 宮内はクスリと笑った「遠いといえば、遠いかな」
 その宮内の表情からは何か揺るぎない決意が見て取れた。しかしどこか寂しく儚げで、まるで8月の空のような、真夏の高揚感と夏の終わりの寂寥感を混ぜ合わせたような、そんな表情にも見えた。
 落雷と雨を運ぶ入道雲にも似た不吉の影が見えたような気がして、藤巻は一瞬返答をためらう。
 彼女はこの家に充満する綺麗な思い出の中でしか飛び回ることのできない、蛍のように弱い生き物なのではないだろうか。そこから連れ出した瞬間、彼女の体は霧のように消えてしまうのではないだろうか。
 しかし、そんな想像は単なる幻想だろうと思い直す。
 今の自分は感傷的になり過ぎているかもしれない。
 徐々に冷静さを取り戻し、自分自身を客観的に判断できる思考回路が少しずつ戻ってきた事を歓迎し、藤巻は根拠のない感覚から来る想像を強引に切り捨てた。
「わかりました」藤巻は頷く。
「ありがとう」宮内は膝の前で組んでいた手を床に着いて、夕日が射し込む窓を眩しそうに見た。
 藤巻も振り返り、目を細めた。

-7 へ続く

No.11 セミ(羽化失敗)

ベランダに何か白いものが落ちていた。

羽化途中のセミだ。

セミ脱皮

壁に掴まって羽化している最中に、風にあおられでもして落下してしまったのだろう。

残念だが、この羽化は失敗だ。

伸びかけの翅に衝撃を受けてしまったら、体液の注入が滞り正常に翅が伸びきらない。

軽くつついてみたら、弱々しく脚を動かした。

なんだかかわいそうだが……放っておくしかない。

自然が一瞬だけ見せる真夏の雪の結晶は、雪の結晶のまま儚く消えていく運命だったのだろう。

一時間後、再びその場所を訪れてみると、セミは姿を消していた。

鳥に啄まれたのだろう。

しかし私はどうも、雪のように溶けてしまったような、そんな想像が頭から離れなかった。

No.10 ミヤマカミキリ

「つまり幕田さんは――」探偵は人差し指を額に当て、悩ましげな表情で上目遣いに私を見る「あなたの靴の中にいつの間にか被害者が侵入していて、それに気付かず踏みつけてしまった、そうおっしゃるわけですね?」

「は、はい」私はただ頷く他なかった。事実、そうなのだから。

「ではこの被害者は、いつあなたの靴の中に入り込んだのか。あなたの靴は昨日履いて以降、ずっと鍵のかかった車の中に置かれていた。その間、車の中に入り込み、ましてや靴の中に潜り込むなど不可能。よって昨晩に侵入したという可能性は排除できます。では昨晩以前に侵入した可能性は? それもまた考えにくい――」探偵は空を見上げた。夏の日差しが探偵の顔を白く染める。「この炎天下じゃ車内の温度は50℃近くにもなる。そんな温度にさらされていた被害者が生き長らえ、夜に靴の中に潜り込むなど考えにくい。よって、昨晩以前に侵入していた可能性も低いと考えます」

私は探偵の言葉を聞きながら、自らが引き返すことの出来ない異次元の世界へと迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。
この世の物理法則が全く通用しない、悪魔の法に則った黒い太陽と赤い月と紫の空が広がる混沌の世界。
真夏の日差しに照らされながら、私は背中に氷柱を押し込まれたような寒気を感じた。

探偵は言う。
あくまでも冷静に。
しかし私にはこの目の前の男が、混沌の世界への案内人のようにも感じられる。
「あなたの証言がすべて正しいのであれば、これは完全な『密室殺虫』です」

密室、殺虫

その言葉は私の耳を通過し脳の奥に押し込められた記憶を呼び覚ます。

靴に足を入れた瞬間の、あの妙な違和感。
中敷きがズレたのかと思い足を引き抜くと、靴下の先にしがみつく黒い影。
ミヤマカミキリ――

私が殺した!

「幕田さん落ち着いてください!」探偵が叫ぶ「あなたがしっかりしなければ、この謎を解くことはできません!」

私はいつの間にか頭を抱え蹲っていた。吐き気の塊が胸元まで押し寄せている。それを飲み込むように深呼吸を繰り返し、再び立ち上がり言った「大丈夫です、推理を続けてください」

探偵は頷いた。

ミヤマカミキリ
プロフィール

幕田卓馬

Author:幕田卓馬
糖、脂質、プリン体、塩分などに気を配らないといけない歳になりました…若い頃の不摂生が原因でしょうか。まだ三十路、されど三十路!
そんな男が日々の合間に小説を書いています。

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