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神社での7日間 (2003年夏)

「ゆーじが死んだんだ」少年は言った。夏の木漏れ日が少年の白い頬の上で水面のように波打っている。蝉は命を燃やし尽くすように鳴き続ける。
「そう…」少女は目をそらす少年の顔を覗き込んだ「悲しいね」
「うん」少年は頷く。
「私もね、この子と一緒に旅をしてきて、大切な人を亡くした人達をいっぱい見てきたよ」少女はお腹をさすりながら言った「でも、君は泣かないんだね」
「うん」少年は再度頷く。
「そっか、君は強いね」
 蝉の声が一瞬止み、激しい羽音が聞こえた。

【8月18日】
高沢家では一人息子の高沢勇司の葬儀が行われていた。しかしそこに粉々に砕け散った彼の遺体は無かった。一枚の紙切れの中にだけ存在する彼の姿に、人々は無言で手を合わせていた。

 少年がこの神社にやってきたのは単なる気まぐれだった。マンションの一室を抜け出し、人と、そして人の形をした機械が歩く街角を、少年は虚ろに彷徨った。静かなところへと風のように流れ、いつしか彼はこの場所に立っていた。そこは機械化が極端に進んだこの世界において、都会の片隅に唯一残された人以外の生き物の世界。本当の静けさが存在する場所。鳥居をくぐり長い石段を登るときも少年は疲労を感じてはいなかった。それは熱の移動のように自然で、そして不可逆的な流れ。最後の段を上りきった時、彼は現実から解き放たれたような感覚を覚えた。
 少年は神社の本堂の軒下に座る少女に気がついた。ボロボロの衣服を身に纏い、白い頬と長い髪には泥がこびり付いていた。少年に気がついた彼女はにっこりと笑った。少年は無言で少女に背を向けた。
「今日は、いい天気。この子も外に出て遊びたいって言ってる」
 少年は振り返った。少女はお腹をさすりながら笑っている。「赤ちゃん?」少年が聞くと少女は頷いた。少年は少女に駆け寄り、少女の隣に腰を下ろした。
「君は、いくつ?」少女は尋ねる。
「僕は10歳」少年は答える。
「なら、私のほうが6歳も年上だね」少女は胸を張った。ぼろぼろの衣服の上に小さな胸の輪郭が浮かぶ。少年は少女の汚れた横顔に目線を合わせた。それは造られたかのように繊細な曲線を見せていた。
「どうしたの? 何かあったの? 君、今すごく悲しそうな顔してるよ?」少女に尋ねられ、少年は視線を頭上に生い茂る透き通った広葉樹へと移した。蝉が騒がしい羽音を響かせてその木に止まった。空気を引っかくような濁った音が響き始める。
「ゆーじが死んだんだ」少年は言った。


【8月19日】 
 高沢勇司の母親はヒステリックな声をあげながら、夫のゴルフクラブでお手伝い用人型ロボットを殴り壊した。結果高沢家には新型のロボット二体の残骸が転がることになった。付き添っていた親戚たちは逃げるようにその場を去った。唯一残った夫の胸に顔を埋め、彼女は大声を上げて泣いた。夫はその肩を抱くでもなくただ呆然と虚空を見つめていた。

 少年が神社へ向かうと、少女は昨日と同じ様子でそこに座っていた。少年も同じように彼女の隣に座った。一言も言葉を交わさぬまま、時間は水蒸気のように空へと浮かび上がり、天井の緑に吸い込まれていく。
「赤ちゃんは元気?」少年が尋ねると、少女は彼の方を振り向きゆっくりと頷いた。
 少年は言葉を続けようとして、止めた。少女はそれを悟っていたかのように視線を石段のある正面へと戻した。時が静かに循環を始める。少年は唄い出した。

    うれしい空は夏の色
    悲しい空は真っ赤に広がる
    木登りをしている男の子は
    どんな空を探しているの

「その歌、学校で習ったの?」少女は尋ねる
「うん」少年は頷き、続きを唄い始める。

    うれしい空に手を伸ばし
    悲しい空は遥か彼方
    男の子の目に映るものは
    みんなが影を抱えてる

    うれしい空に目を瞑り
    悲しい空を見つめてる
    誰もいない木が静かに揺れ
    男の子は影に消えていく

 少年は不意に立ち上がると、大きなクヌギの木へと歩み寄った。手を振り上げ振り下ろす。けたたましい鳴き声がして、彼の手の平には大きな油蝉が収まっていた。
「歌、上手だね」少女は言う。少年はうれしそうに笑う。閉じていた手を開くと、蝉は最初躊躇するように彼の手の上を這った後、羽音を響かせ飛び立った。


【8月20日】
 朝目覚めたとき、少年は泣いていた。
 どうしようもないくらい胸が苦しくて、吐く息は肺の中で凝固したかのように重い。枕に顔をうずめ深呼吸を繰り返す。濁った空気を無理して吸い込むたびに、喪失感が少しずつ薄れてゆくような、そんな錯覚に身をゆだねながら、少年は無意識のうちに流れ出る涙を必死で堪えていた。
 少年の両親は食事にもほとんど手を付けない少年を心配していた。心配はしていたが何をしてあげるわけでもなく、ただ惰性的にいつもの日常を続けていた。
少年は与えられたばかりの子供部屋に寝転んでは歌を口ずさんでいた。彼らが声をかけると少年は返事をし、言葉には頷いて意思を示した。しかし自発的に何かを話し出すことはなくなった。「あんなことがあった後だから」両親はそう言ってそれ以上の詮索をしなかった。彼らが仕事に出かけた後、少年は起き上がり、ビスケットを一枚齧った。そしてあの神社へ向かった。

 少年は蝉を三匹、虫取り網で捕まえた。少女にそれを見せると彼女は喜んでその一匹の背を掴んで見せた。ジージージー。
「君は虫取りも上手なんだね」蝉を虫かごに戻し少女は言う「君には、お腹の子の先生になって欲しいな。歌と、虫取りの」
 少年は赤くなった。「先生」になるのは少し気恥ずかしい感がある。少年は駆け出し、石段の辺りでかごの中の蝉を全て逃がしてしまった。その後いつものように少女の隣に座る。汗がシャツを湿らせ気持ち悪かったが、やがて木々の間を抜けてきた風がそんな不快感を持ち去ってくれた。
「ねえ」少年は少女の横顔を見ながら言う。
「んー? なあに?」少女は立ち並ぶ木の隙間から覗く空を見続けている。
「ねえ、君は、どこから来たの?」
「私は――」ほつれた髪を弄びながら答える「北のほうから来たの。ずっと遠く。私はね、長い間旅をしているんだ。旅をしながら色んなものを見てきたし、色んな人に会ってきた」
「何で、旅をしてるの?」
「何でなのかな? わかんないな。忘れてるのかもしれないし、もしかしたら最初から無かったのかもしれない。そんなこともわからなくなっちゃうくらい長い時間、私は旅をしてたの」
「ふうん」少年が空を見ると橙が買った日の光が、木々の間からまるで帯のように細く伸びていた。今日の終わる様を、2人は並んで眺めていた。


【8月21日】
 テレビではニュースキャスターが高沢勇司の死について語っていた。政治評論家が悪態をつきながら、これは我が国の戦後処理の不完全さが生んだ悲劇だと叫んだ。女性キャスターは目元を押さえていた。勇司の顔写真が映り、その10年という短い一生がドキュメント形式で流れた。
彼らは知らない。勇司はカレーライスが好きだったこと。ドラゴンファンタジーを誰よりも早くクリアしたこと。三組の中島さんが好きだったこと。そして、僕の一番の親友だったこと。
画面の中の人たちは飾り付けられた「悲劇」に悲しみ、怒り、同情し、様々な感情を無造作に吐き出していた。少年はテレビを消す―――

20年くらい前の戦争で、北の国が送り込んだ人間に擬態する爆弾ロボット。今でもその不発弾があちこちに存在していて、勇司はそれに接触しその爆発に巻き込まれて死んだらしい。
彼らはそんな事を言っていた。
 少年は神社へ向かう。

「今日はこの子、すごく元気がいいの」少女は軒下に座り足をブラブラさせながら、腹部にやさしく手を当てる「早く出たいよ~って言ってるみたい。君はどう思う?」
「僕はわからない」少年は胡坐をかいている。足元には虫取り網と、クルマトンボ三匹、アブラゼミとミンミンゼミがそれぞれ一匹ずつ入った虫かごが転がっている。
「ねえ、この子の動く音、聞いてみたい?」
「うん」少年は頷いた。少女は腹部から手を離し、少年を手招きする。まだほとんど膨らみも見えないなだらかな腹部に、少年は右の耳を当てた。
 チク…
チク…
 チク…
 少年は耳を離し、少女の顔を見た。
「元気そうでしょ?」少女はやさしい笑みを浮かべている。
「うん、ほんとだ。早く出たいって言ってるみたい」少年は胡坐を止め、少女と同じように足をぶらぶらさせた。半ズボンから覗く裸のすねに生えた産毛が空気に撫でられくすぐたい。トンボが一匹少女の頭にとまっている。羽の角度を落とし休憩の体勢。
「この子は、私の大切なもの」少女は言う「君の、大切なものは?」
 少年は、その問いには答えなかった。
無表情、虚空を見つめる目。
「大切なものはね」少女が顔を動かすと、トンボは即座に飛び上がり少し離れた木の枝へとまり直した「大切なものは、朝夢から目覚める数分前に、私たちの中にある暗闇からふわーって浮かび上がってくるんだ」
「よく、わからないよ」少年は言った。
「目を覚まして涙を流している時、君はきっと大切なものを見ていたんだよ。それは瞼を突き抜ける朝日で蒸発してしまうけれど、そんな涙を流す間は、君の中から大切なものは消えてはいない。ただ君の意識の深海に沈んでいて、いつもは見えないだけなんだ。そんなふうに、思わない?」
 少年は首を傾げる。頬が微かに緩む。
「変なこと言うね。でも、なんとなくだけどわかる気がする」少年の言葉に、少女は笑顔で頷いた。


【8月22日】
 午前五時には、太陽は眩しく少女の汚れた横顔を照らしている。その頃にはもう、彼女はその大きな目を黄緑に光っているクヌギの葉に向けていた。カラスの鳴く声が遠くから響いてくる。小鳥たちが街灯にとまった蛾を啄ばんでいる姿を想像してみる。
 粉々に分解され均一に拡散された朝の空気が少女のロウのように滑らかな肌に触れ、静寂、あるいは孤独という重く強靭な牢の扉を閉ざす。そのまま彼女は絹色の海へと沈んでいく。深く、深く…
 黄金色の光。肌を焼く光。蝉の声。うるさく、時としていとおしい。
 石段を叩く音が波紋のように広がる。生き物たちの声はシャボンの膜に包まれる。その中でひときわ際立つ足音、少女の意識は少女の体へと舞い戻る。
 少年がいつものようにそこに立っていた。
 いつものように虫取りを始める少年。少女はその姿を見つめている。神社には湿った土の匂いと、生い茂る青草の匂いと、風にざわめくやわらかい木の葉の音と、青空と、遠ざかる飛行機雲と、空の果てを覆う入道雲と、やがて赤く染まる太陽と、それを受けて色を変える羊雲と、紫がかった世界と、遠くから聞こえてくる花火の音と、七色の光があった。
「花火だ!」男の子は叫んだ。
「綺麗だね」少女は言った。
 やがて花火が終わる頃、神社は再び静寂へと還った。


【8月23日】
 高沢勇司の父親が首を吊って死んでいた。自室の天井から吊り下がった彼は首を奇妙な方向に曲げていた。足元には作業机の椅子が転がり、垂れ流された排泄物が床を汚していた。遺書は勇司の死について書かれてあった。黒の油性ペンでぐしゃぐしゃに書かれたその文字はハエの屍骸のようにも見えた。第一発見者は彼の妻だった。彼女は死体を前に胃の中のものを洗い浚い吐き出した後、奇声を発してマンションの8階から飛び降りた。頭が割れ、脳みそをぶちまけていた。即死だった。

 全国で大規模な「人型不発弾」の処理が行われる事が決定した。人と機械を見分ける特殊な機械が各地に配布され、平和ぼけしていた兵隊達はせわしなく散っていった。人々は安堵の声を漏らし、被害者である10歳の少年を思い、残虐非道な「人型不発弾」の完全なる排除を口々に唱えた。

 少年は歌を唄う。昼間から突然降り出した雨が雨樋を伝って地面に落ちる。その規則正しいリズムにのせて、少年は澄んだ声を暗雲に向け響かせる。夏の雨はむっとするような大地の匂いを生む。心なしか、空気の密度が高まったような気がしてくる。少女は少年の歌声に乗せてゆっくりと体を前後に振る。雨はやむ気配を見せない。
「雨、止まないね」歌を止め、少年は言った。
「そうだね。でも、最近暑い日が続いたから、木も草もみんな喉が渇いていたと思うし、私はいい事だと思うな」
「そうだね。蝉も喜んでいるかな?」
「それはわからないな。きっと雨宿りしながら、また飛べるようになるのを待ってるんじゃないかな」少女はそう言って軒下の乾いた地面を見た。そこには昨日見つけた蝉の屍骸が転がっていた。蟻が10匹ほど集っていたが、それは昨日と同じ姿でそこにあった。
 少年は頷いた。そして何も言わずに雨を見つめ始めた。雨は天から伸びた糸のように見えた。少年は再び唄い始める。
 夕日が空を染めること無く、時刻は夜へと移っていった。雨音はまだ続いている。雨の糸がまるで格子のように周りを覆い、少年をこの神社へと閉じ込めている。虫の鳴く声は聞こえず星の瞬きすら見えない。2人だけが座るこの小さな世界は、今雨によってその機能全てを支配されていた。
 少年は少女のひざの上に頭を乗せ、少女は少年の髪を細い指先でやさしく撫でる。雨の湿気と少しだけ滲んだ汗によって少年の髪は少女の指に絡まりつく。それを丁寧にほどきながら少女はその手を休めることなく動かした。少年は目を細めた。痩せているが少女の肌は柔らかかった。少年は意識のまどろみを覚える。雨音だけが聞こえるこの世界の中で、少年の耳にかすかに届いた心音。
 チク…
 チク…
 チク…
 全てが微弱で、全てがやさしく、そして小さく致命的な亀裂を含んでいた。ただ雨の音だけが強く、何かをごまかすように鳴り続けている。
 少年は目を瞑った。少女の肌の温もりに全てを預け、少年は眠りについた。


【8月24日】
 目を覚ましたとき、少年は神社の軒下に一人寝転がっていた。雨は止み、蝉は鳴き、世界は元の姿へと還っていた。しかしそこに少女の姿は無かった。少年の胸の中に真っ黒な塊が生まれ、それが心臓の音を早めていった。少年は少女の名前を叫ぼうとして、彼女の名前を知らない事に気付いた。大声を上げながら少年は神社の周りを探し回った。
 石段を数段下りたところに少女は座っていた。
 その白い肌は、真夏の雪のようだった。
 少年が声をかけても少女は目を瞑ったまま動かなかった。少年は何度も何度も少女の肩を揺すった。それでも彼女は動かない。折り曲げた膝の上に片手を置き、もう一方の手を石段に当て、俯いたまま座っている。少年は少女の隣に腰を下ろした。足元を、黒い色のバッタが跳ねていく。少年は少女の肩に頭を乗せ、形を変えていく雲を見つめていた。時はゆったりと流れを刻んでいく。黒い色のバッタは草むらの中へと消え、雲は大きく伸びていた。
 少女の肩がかすかに動いた。
 驚く少年の前で、少女は立ち上がり、石段を上った。そして神社の軒下のいつもの位置へと腰を下ろした。呆気にとられていた少年も急いで石段を駆け上がると、少女の隣に腰を下ろす。
「夢を見てた」何処か遠くへと視線を向け、少女は言う「真っ赤な夢。大きな音がして、辺りが真っ赤に染まっていく。私の体が星みたいにキラキラ光って、人がいっぱい死んでしまうの。みんな、粉々に砕けてしまうの」
「恐い、夢だね」
「うん…」少女は頷いた。
 言うべき言葉を無くした少年の耳に、あの音がはっきりと届いた。
 チク…
 チク…
 チク…
少女はお腹に手を当てた「ねえ、この子、出たいって言ってる」
 少年は何も答えなかった。足元に転がる蝉の屍骸には、蟻が黒い影のように群がっていた。何かは終わり、新しい何かの糧となる。
「早く、早く、早くって、そう叫んでる」胎動はその鳴りを早めていく。まるで終わりの時を告げるように。
 チク…チク…
 チク、チク、チク、チク、チク
 チクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチクチク
「叫んでる! 叫んでるよ!」少女は今にも泣き出しそうな顔で少年を見た。その顔には歓喜と、そして恐れが同居していた。少女は叫ぶ。狂ったような表情で。まるで愛しい歌を唄うかのように。
少年は少女と目を合わせる。
そして一度だけ、壊れそうなほど弱々しく、笑顔を作った。
 少年は立ち上がり石段へと歩いていった。彼の頬を、涼しげな風が撫でて行く。真上に見える太陽はやかんの底に溜まった残り湯のような、ある種の惰性的な熱気を帯びていた。
 もうすぐ、夏は終わるのだろう。全てが眩しく見えた季節は、次の季節に押し流されていく。いつもと変わらぬ景色の中に、そんな終末的な感情は息を潜めながら、しかし確実に潜んでいる。
 少年は涙が出そうになった。
 石段を駆け下りる。飛び立つ蝉が短く鳴いた。
 少年は呟いた。
「さようなら」

 そして、少年はたった一度だけ、大きな花火の音を聞いた。

(2015年4月 一部手直し)
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このバス人生経由 (2003年夏)

          1
予備校に向かうバスの中で居眠りをしてしまった僕は、目を覚ました時おかしなバスの中にいた。
がらんとした車内に人影は無く、空気中には夕暮れ時の公園にたたずむみたいな小さな孤独感が、アルゴンくらいの割合で漂っていた。
窓の外は真っ暗で何も見えない。
比較するものが無いからこのバスが動いているのか止まっているのかさえ僕には定かじゃ無いが、ぺしゃんこの焦げたホットケーキみたいなシートからかすかな振動が伝わってくるところをみると、多分動いているのだろう。
まあ、そんな事今はどうだっていい事だ。だって今僕の足元では、薄皮まんじゅうみたいな真ん丸いハムスターが、流暢な日本語で僕に話しかけているのだから。
「ようこそタイムバスへ。私はこのバスのガイドを勤めさせていただきます、ハムスターの川宮隆俊といいます」ハムスターの川宮さんは深くお辞儀をしたようだが、あまりに丸すぎて何をしているのかいまいちわからない「おめでとうございます。あなたは運良く、私どもの班のツアー参加条件――山川交通丸沢経由角島行きのバスの中で居眠りをした両手の小指の長さが違う過去になんらかの悔いを持った5月もしくは10月生まれの方、に見事に該当しました。よってあなたは過去に戻って自分の過ちをたった1つだけ修正できるという、素敵な時間ツアーへの参加が決定しました。私たち時間交通は参加条件に当てはまる方を見つけると直ちにこのタイムバスで過去へとお送りすることにしております。と申しますのも現代では幅広い世代で世間の逆境に耐えられず自殺する人々が増えているのです。その理由のほとんどは過去に犯した何らかの過ちに起因しているらしく、そこに目を付けた先代の会長はこのバスツアーを行う事によって・・・」
宮川さんはまん丸の体を震わせながら熱弁した。
僕は半分上の空で彼の食生活について色々と思考をめぐらせていた。きっと彼はひまわりの種の食べすぎなのだろう。もう少しにんじんやキャベツも食べるべきだ。それとも飼い主があまり利口ではなく、ひまわりの種しか与えてもらえないのだろうか。そもそも宮川さんに飼い主はいるのだろうか。飼い主はこのしゃべるハムスターをどう思って――
宮川さんの弁論は20分に及んだ。そのほとんどが時間交通という彼の会社の眉唾物の伝記であり、僕が必要としている情報は最初の20秒くらいだけだった。要約すると『過去に返って1つだけ過ちを修正するチャンスを与えられる』らしい。これも眉唾物の話だったが、反論するのも面倒だったので黙っていた。
「今このバスは、あなたの最も後悔している過去の過ちに向かって一日/秒の速さで時間を遡っています」
「僕の過去の過ち?」
「はい、このバスはあなたの人生を経由するバスなんです。あなたの乗った山川交通丸沢経由角島行きのバスの乗客でツアー参加条件に見合った方々は、各々の人生を経由するバスに移され、それぞれ自分の人生を遡ってることでしょう」
「は、はぁ」曖昧に返した返事はバスの低い天井に当たって跳ね返り、辺りを歩き回った後シャボン玉のように消えた。
「馬場さーん、あとどの位ですか?」
運転席には馬人間がいた。顔が馬で体が人間という、少し前の競馬のCMに出てきそうなやつだ。そいつはニンジンを食みながら片手でハンドルを握り「ヒヒーン」と鳴いた。
「もう着くそうです」
やがてバスは音もなく止まった。あいかわらず窓の外は真っ暗だが、シートからの振動の変化でそれがわかった。宮川さんは僕を前方のドアの前に立たせた。馬人間の馬場さんの操作でドアは空気音と共に開く。開け放たれたドアの外には井戸の底のような深い闇が口を開けていた。「さあ、行ってらっしゃいませ。素敵な未来を築けるよう、影ながら応援させていただきますね」にこやかに言い放つと、僕の体は馬場さんによって窓の外に突き飛ばされた。
闇の中へと落ちていく。僕は目を瞑った。

          2
夏、15歳だった。そして僕は、彼女を傷つけた。
彼女に誘われて僕は神社の裏山に登った。午後8時10分前。もうすぐ花火が始まる。夏の夜を染める七色の花火。薄く引き延ばしたようにながれる穏やかな時間と、その膜を心地よく震わし断続的に響く軽快な花火の音。
彼女は恥ずかしそうに俯きながら言った「ずっと、好きでした」僕は驚き、顔が焼け石のように熱くなった。心臓の音がうるさい『僕もだよ』しかしその声は森の木々に吸い取られたように、上手く言葉として成り立たなかった。僕の顔は真っ赤だった。言葉を諦め、彼女に手を伸ばそうとした。彼女の肩が震えた。
しかしその手は、すぐに離された。木の葉が折り重なりできた暗闇の中から、耳障りな和声が漏れる。嘲笑。僕たち二人はそちらを見る。小さな赤い火が3つ、そしてそれは揺れながら僕達の傍まで歩み寄ってくる。3つの火は彼らの吸う煙草の火だった。クラスメイトが三人、見下したような目で僕らを見ていた。
「ずっと、好きでしたぁ? はぁ?」
一人がそういって僕の肩を強く張った。他の二人が笑い出す。「な、何するんだ…」腹の奥底から搾り出した声は、窄められた喉に押さえつけられ情けないほど弱々しく響いた。「ずっと、好きでしたぁ、だってよ」彼らは彼女に顔を近づけ、煙くさい息を吐きかけて「馬鹿じゃねえの」そう彼女に言い放った。彼女は俯く。僕は声を張り上げようとしている。でも、できない。
嘲笑。
彼らの笑い声だけが、どんどん大きくなり、僕の頭の中をいっぱいにしていく。
彼女に目をやる。彼女は泣き出しそうな顔で僕を見ていた。「相上くん…」その場を離れようと、強く握った僕の手を引こうとしている。
「ねえ、相上くん…」
僕は今でも忘れられない。
その時彼女は、涙をいっぱいに溜めながら必死に笑顔を作っていた。
そんな僕らをクラスメイトが大声で笑い、「だせぇ、きめぇ」と胃に食い込むような声でわめき散らす。僕の中の向かうべき方向性を失った怒りが、吐き気にも似た不快感と共に込み上げてくる。
僕の手を握る彼女の手。
僕は、その手を乱暴に振りほどいていた。
彼女の表情が、凍りついた。

僕は彼女が好きだった。
本当に好きだったのだ。
でも激しい感情は時として、白い朝霧のように本当の気持ちを隠してしまう。
それから彼女とは一言も口を利いていない。互いに互いの存在を忘れようとしながら、半年を過ごし、僕たちは中学を卒業した。
あの頃の僕は本当に馬鹿で、どうしようもないくらい子供だった。

          3
目を覚ました時、僕は15歳になっていた。宮川さんの言っていたことはどうやら本当だったようだ。しばらく呆然と立ちすくんでいたが、まあそんな事もあるのかなぁ、と思い直す。人間は意外と適応力に優れた生き物なのかもしれない。
とりあえず食堂に向かうとお袋が冷麦を茹でていた。「あら央介、宿題は終わったの?」「うん」そうは言ったものの、この頃の僕も宿題を最終日まで残しておく性質だったはずだ。食卓に冷麦と薬味が並べられた頃に姉貴があくびをしながらやってきた。三人で食卓を囲む。姉貴が言った。
「今日、白羽神社のお祭りだったよね。央介は行くの?」
 は頷いた。「友達と?」と聞かれたので首を振った「なら、もしかして、彼女?」「そんなのいないよ。一人で行くつもり」「なんだ、つまらん男…」姉貴はそう言ってずるずると勢い良く冷麦をすすった。
「お祭り行くんなら、母さんにりんご飴買ってきて」にこにこしながらお袋が言う。
「わかった。後でお金は返してよ」
「はいはい。りんご飴なんて、懐かしいわねえ」
僕は食器を片付け、自室に戻ると外出着に着替えた。しばらくマンガ雑誌を読み、時計が二時をまわった頃僕は家を出た。
りんご飴の屋台の前で彼女に会ったのは、たしか3時頃だったはずだ。

真夏の質量を持った光が全身にのしかかり、僕は軽いめまいを覚えた。首筋から汗が噴出す。Tシャツの背中はじんわりと濡れている。境内の人ごみは川のようにとめどなく流れ、軒を連ねる屋台の前ではわずかな淀みが生まれている。蝉の声と人々の喧騒は競い合うように相乗し、渦のようにうねりながら、神社の神聖で厳粛な空気を飲み込んでいく。
りんご飴の入った袋を片手に僕は彼女を待っていた。時計は三時半を指している。
遅い。
僕は辺りを見回した。人ごみの中に彼女の姿を見出そうとした。無表情に流れていく人々。
時計はもうすぐ4時を指す。いくらなんでも遅かった。
四年前の夏祭り(つまり今日)、僕は3時にこの屋台の前で彼女に会ったのだ。彼女の友達がりんご飴を買っている間に、彼女は僕に言った「相上くん、今夜の花火、一緒に見てくれないかな」そして僕は、戸惑いながらも頷いた。
しかし今、彼女は現れない。
僕は屋台を離れると境内の周りを一周してみた。一周をほぼ終えようという時、焼きそばを買っている彼女の姿を見つけることが出来た。彼女は友達と2人だった。2人とも浴衣を着ていて、僕は彼女の浴衣姿を今でも覚えている。そのため、彼女を見つけるのはわりと容易だった。
しかし「声をかける」というその単純な一動作は、僕にとって硬い貝の殻を割るように難しい。僕の中の彼女はあの日のまま、いつも泣き出しそうな顔で僕を見つめている。それでも僕は、平然を装って、2人に声をかけた。 
友達の方が振り返り無表情で言葉を返した「こんにちは。相上君も来てたんだ。一人?」「あ、うん」「ふーん…」僕は困ってしまった。声をかけたのはいいが話題があったわけではない。不自然な沈黙の中、僕はそっと彼女に目を向けた。
彼女は俯いていた。僕の角度からは彼女の表情を伺う事は出来ない。僕は幾分ほっとした。彼女と向き合う勇気を僕はまだ搾り出せていない。
「どうしたの?」友達が怪訝そうな顔で言う。
「いや、あの、色葉さんに――」
「え、何? 彩がどうしたの?」
「その、色葉さんに、ちょっと一緒に来てほしいんだ」
僕は咄嗟に彼女の手を掴んだ。体温が手のひらから伝わり、右手が心臓になったみたいにドクドクと波打つ。突然のことに面食らった彼女が僕を見た。僕は振り返らずに走り出した。「ち、ちょっと、何? 何なの?」友人が叫ぶ「大事な用事があるんだ! すぐ終わるから! ごめん!」僕は返した。

いつの間にか、最初のりんご飴の屋台まで戻ってきていた。
「話があるんだ」
右手を離し、無言のまま俯く彼女に言う。気恥ずかしさと走ってきた事による発熱で、僕の顔は出来立てのりんご飴みたいに赤くなり、熱を持っていた。右手がまだ彼女の柔らかい皮膚の感触を覚えている。
「どうしたの、急に…?」
彼女が始めて口を開いた。久しぶりに聞くその声に、僕は耳の奥がくすぐられるようなむず痒い感覚を覚えた。僕は必死に冷静を装っていた。
「あの、色葉さん、今夜の花火、一緒に見ようよ」
僕は彼女の顔を見ていなかった。瞬き3回ほどの沈黙が生まれる。その沈黙から彼女の驚きと戸惑いが見て取れる。
「あの、俺、花火見たいなーって思ってたんだけど、一緒に見てくれる人いなくってさ、そしたら色葉さんに会ったから、良かったら一緒に見てくれないかなーって」
ちらりと彼女の表情を伺う。彼女は僕の顔をじっと見据えていた。
その目が一瞬悲しい色合いを見せたのは――
きっと僕の思い違いだろう。
「うん…」小さな声で彼女が返した。
「じゃあ、夜の8時に、神社の裏山の上に来て。待ってるから」
不器用に微笑むと、僕は踵を返した。
歩きが早歩きになり、やがて駆け足に変わった。家までの距離を僕は駆け足で帰った。途中で足がもつれて転びそうになると、その都度顎を引き、次いで空を見上げた。入道雲が遠くの空を白く覆い、そのところどころから青が滲んでいる。不思議なくらい濃い青だ。ずっと見ているとそれはだんだんと滲み出し、白い雲は画用紙にように青く染まっていく。まるでクレヨンで塗りつぶされるように――そんな錯覚。
裏山で、彼女に本当の気持ちを伝えよう。そして2人で花火を見よう。誰かに笑われたら笑い返してやればいい。笑いながら、彼女の手を取って走ればいい。
そう、ただ、それだけの事。
今の僕はもう、馬鹿でも子供でもないのだから。

          4
夜の7時に家を出た。屋台で焼きそばを買い、それを裏山で食べながら彼女を待とうと考えていた。夕暮れに染まった空をバックに、人々は思い思いの服装と表情で、賑わう境内を闊歩していた。やがて燈り始めた常夜灯の恒星の周りを、小さな虫が惑星のように回り始める。大きな蛾が一匹、電球にあたり「こつん」と小さな音を立てた。
それは4年前とまったく同じ景色だった。
涼しげな風に吹かれて、吊り下げられたちょうちんが小さく揺れていた。
焼きそばの屋台の前で、僕は3人のクラスメイトを見た。僕達を裏山でからかった、あの3人だ。無視して通りすぎようとすると、3人は僕に気付いたらしく、にやにやしながら近づいてきて煙草代をせがんだ。「いやだ」と僕は首を振った。3人は顔を見合わせる。明らかに気分を害したようだった。
「そーいやお前、さっき彩の手を引っ張ってよなぁ。何してたんだ?」
りんご飴の屋台の前でのこと見ていたのか、一人が言った。
「お前らには関係ないだろ」僕はできるだけ冷静な目で彼の顔を見据える。
「なんだよ、その目は」一人が僕の胸倉を掴んだ。顔を近づけて僕の目を覗き込む。煙草臭い息が鼻につく。人の流れに逆らいながら、僕は屋台裏の林の中へと強引に連れ込まれた。ひぐらしの声が広葉樹の天井から落ちてくる。うるさい、と僕は思った。
陽が落ちかけた林は濁った水の中にいるように薄暗かった。
「相上、てめえちょっと生意気なんじゃないか」胸倉を掴まれたまま背中を木に押し付けられた。硬い木の皮が背中に刺さって痛む。「なあ、金貸してくれよ」「いやだ」
そう言った瞬間、僕は殴られた。
腹部に拳が食い込んだと感じ、自分が殴られたと気付き、胃を揺さぶられたような痛みが僕を襲った。のど元まで胃液が出掛かり、腹を押さえて地面に座り込む。3人は僕のズボンのポケットから千円札2枚を抜き取ると、空になった財布を地面に捨てた。
僕は深呼吸を繰り返した。内臓を落ち着かせようと生暖かい空気を吸い込み、粘ついた息を吐き出す。額とわきの下にいやな汗が滲んでいる。そんな僕を3人は鼻で笑った。その声はだんだん大きくなり、やがて子供のように甲高い笑い声に変わった。
あの時と同じだ。
同じ笑い声だ。
怒りで拳が震えた。地面に積もった腐葉土を踏みしめ立ち上がる。ひぐらしは遠ざかり、いつの間にか鳴き止んでいた。
「相上くん…」
あの時の彼女の顔が思い浮かぶ。遠くから聞こえる三人の冷ややかな笑い声。それは段々と増殖を始め、頭の中を埋め尽くす。
彼女の表情が歪んでいく。
3人が僕らを指差している。指差して、僕をあざ笑っている。
そして、色葉さんを笑っている。
彼女の表情が凍りつく――
僕は彼らの一人に殴りかかっていた。
右手に鈍い痛みが走った。倒れた相手にのしかかろうとして、わき腹に衝撃を感じた。靴底が僕のわき腹をとらえていた。再び吐き気がこみ上げてくる。僕は蹴りの来た方向に向けて拳を振るった。軽い手ごたえがあった。一人が僕を後ろから羽交い絞めにしようと手を伸ばす。僕は暴れてがむしゃらに肘を出す。倒れていた一人が立ち上がって僕の顔を殴った。口の中が切れて血が飛び散った。
「笑うなよ!」
僕は顔を殴り返す。後ろの一人に蹴りを打つ。腹を何度も殴られる。骨がぶつかる音が聞こえる。
「色葉さんを笑うな! あやまれよ!」
足を掛けられて地面に転がった。馬乗りされて顔を打たれる。あやまれ、くそやろう、反撃は空を切った。それでも僕は拳を振り回した。
色葉さんにあやまれ。
僕は繰り返し叫んでいた。
でも、僕のその言葉は、一体誰に対してのものなのだろう。
彼女にあやまらなければいけないのは、この僕だ。
彼女にあんな顔をさせたのは、この僕だ。

花火が上がった。
まるで、星が流れるように。
花火が上がった。
 
僕は裏山のてっぺんにある少し開けた場所に腰掛けて花火を見ていた。殴られた身体の節々は、少し動かすだけで悲鳴をあげた。口の中は血の味がした。缶のお茶を口に含み、血を洗い流して吐き出す。
そして、1人で黒い空を見ていた。
彼女は現れなかった。
人魂みたいなものが一直線に駆け上り、砕け散って光の破片をばら撒いた。数秒して腹の奥から響くような音が静かな空気を震わす。その音が消えたとき、まるでその振動にかき消されてしまったみたいに、辺りからはかすかな音さえも消え去っていた。辺りには更に深い沈黙が凪いだ海のように漂っていた。
沈黙の間、僕の心は伸縮を繰り返し、まるで粘土のようにあいまいに形作られていく。しかしそれは次の花火と一緒に、ガラスのようにはじけて消えた。また生まれる沈黙の間、僕は再び欠片を集め、形を作り、そしてそれは花火とともにはじける。そんな事を何度も何度も繰り返していた。
朝顔の形の花火。
滝のような花火。
土星の形の花火。
アニメのキャラクターを模した花火。
そして最後に、空を覆いつくすような大きな花火が上がった。
すべての花火が終わった。僕は地面に寝転んだ。木の葉の揺れる音がいやに鮮明に聞こえる。まるでそれ自身が意味を持っているような、露骨に強調された音。一体、何を意味しているのだろう。その悲しげな音色はいつまでも鳴りつづけている。
僕は目を瞑った。やがて満ち潮のような眠気が僕を飲み込んでいく。
過去は変えられない。
所詮、過去は変えられないのだ。
僕はやはり、馬鹿で、子供のままだった。

          5
肩をゆすられ目を覚ますと、中年の男が僕を見下ろしていた。
「もう終点だよ。勉強もいいけど、夜はちゃんと寝なきゃだめだよ」
何を言っているのだろうか。中年男の顔を焦点が定まらない目で見上げ、ポンコツのロボットが起動するみたいにゆっくりと腰を浮かせた。こげたホットケーキみたいなシートには僕の座っていた跡がクレーターのように残っている。窓の外は見たことも無い田舎の景色が広がっている。
「ここは、どこですか?」
「このバスの終点の角島だよ」
中年男は呆れたように行った。彼はこのバスの運転手のようだ。馬人間ではなく、普通の人間の。どうやら元の世界に戻ってきたらしい。
「やれやれ」と後部座席の方へ向かう運転手。何気なくそちらに目をやる――
同い年くらいの女の子が眠っていた。
髪形も違うし、服装も大人びている。
その寝顔には、ついさっき見た数年前の面影があった。
僕は彼女に駆け寄る。「ああ、この娘、君の知り合いなの?」という運転手の問いに「ええ」と頷くと、僕は眠る女の子の小さな肩に手を置いた。
「あの、終点だよ」
「う、うん…」
女の子は小さく唸り目を開けた。ぼんやりした目で僕の顔を見つめ、目元に浮かんでいた涙の跡を人差し指でこすった。再度僕の顔を見る。
その目が大きく見開いた
「君もあのバスに乗ったんだね」
言葉を失っている彼女に僕は言った。
僕達はきっと、同じ時の過ちを胸に秘めていたのだろう。その過ちを僕は僕のやり方で、彼女は彼女のやり方で正そうとした。
「ずっと待ってたんだよ」
「ごめんね、相上君」
「いいよ」
「でも――」
「謝らなくちゃいけないのは、僕のほうだ」
僕は彼女に「ごめんな」と言う「あの時は本当に、ごめん」
彼女は「ううん」と返す。そして後に続く言葉を探すように、窓の外に視線を移す。
青い空がひろがっている。黄色い太陽が彼女の頬を照らしている。
僕も外を見た。同じ世界を眺めながら、僕は呟くように言った。
「僕も、好きだったんだよ」
頬にほんの少し視線を感じ、僕は赤くなった。彼女の返事が聞きたかった。彼女もまた呟くように言った。
「ありがとう、相上くん」

バスが走り出す。
僕と彼女は後部座席に並んで座っている。

(2015年4月一部手直し)

ハロウィンの夜、電波塔の2人 (2011年10月)

ハロウィンはケルト人にとって、死者の霊が現世に現れる特別な日であるらしい。
営業回り中の不慮の事故で命を落とした日本人の会社員タカハシは、お盆の帰省と間違えてハロウィンの夜に現世へと舞い戻ってしまった。事故の原因も取引先との待ち合わせ時間を間違え焦った事による運転ミスだというのに、死んでもドジが治っていない残念なタカハシなのだった。
一年ぶりの町は、相変わらず小さな湖の畔に横たわる苔生した石ころのように落ち着いた空気が流れていて、タカハシは懐かしい気持ちになった。
変わったところ言えば、自分がぶつかって破損させたガードレールが補修されその一辺だけ真新しい白に変わっていると言う事。それと、自分が住んでいたアパートの一室は空っぽになり、今は誰も住んでいないと言う事。
懐かしさに誘われて、タカハシはかつての自分の城にふわふわと足を踏み入れた。マンガやゲームに囲まれ現実の侵略に抗ってきた難攻不落の城も、今では月明かりすら不用意に差し込む孤城と成り果てている。
かつての自分がそうしたように、窓辺の床に座り込むと、タカハシは感慨深く差し込む月明かりを見上げた。ここにビールの一本でもあれは、きっと今宵は最高の夜になるだろう。
カツカツカツ――ヒールが床を叩く。
玄関の向こう側、二階の廊下から聞こえて来たその音を聞いてタカハシは玄関の方に一瞥した。こんな時間にこんな場所へ女性が何の用だろうか。自分が住んでいた頃は両隣とも女性に縁の無さそうな悲しい男性が住んでいたはずだが。
もしかしたらどちらかに恋人が出来たのだろうか?
 なるほどねよかったよかった、とタカハシは誰にとも無く建前の言葉を呟いたが、本音は羨ましくてしょうがない。壁抜けも思いのまま、その上誰にも見えないこの体を駆使して夜の営みを覗いてやろうか。自分だけ幸せになりやがってちくしょう。
ガチャ――ドアノブを回す音。
違う、隣室ではない、音はこの部屋の玄関から聞こえた。
タカハシは再度玄関に視線を移す。
ドアが開いていた。
鍵が掛かっているはずのドアは完全に開け放たれ、薄明かりが一人の女性のシルエットを浮かび上がらせた。スーツを着た小柄な女性が玄関に立っている。
女性は薄暗い足元を確認しながら、ハイヒールを脱いで部屋へと上がりこんだ。
泥棒か? タカハシは隠れようとしたが、自分が霊体である事を思い出す。
女性の視線はキッチンから、開け放たれた引き戸を抜けて、部屋の奥に位置する窓の付近へと向かい、止まった。
座っているタカハシを凝視するかのように、女性は微動だにしない。
「誰? 幽霊?」
 女性から誰何の声があがった。
タカハシは驚く。一つは霊体である自分が女性に見えていたという事。そしてもう一つは女性の声に聞き覚えがあった事。タカハシはその声を忘れるはずが無い。
『三浦さん?』
 思わずタカハシは問いを返す。
 生前同僚だった女性――三浦ハナが、そこに立っていた。

          ★

 客に頭を下げるだけの不毛な営業回りから帰ると、同僚の三浦ハナが一人パソコンの前で頭を抱えていた。
「お疲れさまー」ビニールボールに空けた針穴から吹き出る空気のような弱々しい声で、タカハシはハナに声をかけた「調子はどう?」
「全然終らないんです…」顔を上げたハナの目は眠気でとろけている「あーもう脳みそがプリンになりそう」
「何やってるの?」
「明日までに新規顧客のフォロー営業用のリストを作らなきゃダメなんです」
「ああ、今月は主任がめちゃくちゃ力いれて回ってたからなぁ、膨大な数だろ」
「そうなんです」ハナは涙目だ。
「今日の分の残務がすんだら、俺も手伝うよ」
タカハシはそう言いながら、ビジネスバッグに詰めた資料を机の上に並べた。二十社回って、資料をもらってくれたのはたった一社。その一社も半ば強引に押し付けたようなものだし、今後の進展は望みが薄いだろう。手元に残った大量の資料が、本日の徒労を物語っている。
こっそりハナの後ろ姿に目をやった。飾り気の無い黒髪のショートヘアーは、堅苦しいスーツの上にどこか不釣合いな少女の輪郭を見せている。普通ハナぐらいの歳の女性は、茶髪だパーマだなんとか盛りだなどと、いかに自分を華やかに見せるかに苦心しているものなどだろうが、ハナはその名に反して華を咲かせる気がまったく無い。
タカハシは華やかな女性が苦手だ。何か腹黒いものを感じてしまう。だからと言っては失礼だが、タカハシはハナに対し他の女性には無い安心感を覚えるのだ。
「どれどれ、先輩にみせてみなさい」
「このリストをパソコンに打ち直して――」
「うんうん」
 時計を見ると夜九時を回っている。もうあと一頑張り、やってやろうじゃないか。
 
          ☆

 月明かりが差す薄暗い部屋の中、ハナは部屋の奥――ベランダに面した窓の前に誰かが腰掛けているのに気づいた。
 そいつは普通の人間とは思えない程奇妙な容貌をしていた。全身の輪郭はぼやけており、顔つきも判別がつかない。視認しようと細部を凝視すればするほどその姿は霧のように四散し輪郭すら掴めなくなる。そいつの背面に位置する窓枠にピントを合わせようとすれば、その姿はとたんに透明に変わる。
そこに居るようで居ない不可解な存在感。
 生きている者では無いと、ハナは本能的に察知した。
「誰?」ハナの発した一言にそいつは一瞬たじろぐ。
そしてその問いかけに返すように、そいつはハナの名前を呟いた。
『三浦さん?』
今度はハナがたじろぐ番だ。
「何で、私の名前を?」
 至極真っ当なその問いに、そいつは更に驚きの様相を見せる。
『そっちこそ、俺の声が聞こえるのか?』
「聞こえますけど……」ハナは言葉に詰まった。そいつの発し言葉は、声音こそ違うもののある人の話し方にそっくりだったからだ。
 そんな事があるはずが無い。ハナは自分の直感に疑念を投げかける。しかし、自分が間違えるわけが無い。その人の言葉を、仕草を。
「つかぬ事をお尋ねしますが――」そこで一呼吸言葉を区切る。小さな決心の後「あなたは、私の先輩の高橋さんなのでしょうか?」
『え、あ、うん』
 そいつは面食らったように、小刻みに頷いた。
 ハナは息を呑む。その足は無意識に、そいつ――タカハシと名乗る幽霊へ向かう。
「ほんとに高橋さん?」
 詰め寄るハナ。
『まぁ、うん』
「ほんとのほんとのほんとに?」
『そうだけど』
「ほんとのほんとのほんとのほんとのほんとに?」
『そうだって』
「ほんとのほんとのほんとのほんとのほんとのほんとのほんとのほんとの――」
『くどいっ!』
「その、なんのひねりも無いつなんないツッコミ……ほんとに高橋さんだ」ハナは確信した。その幽霊がタカハシであると。ハナの口元がへの字に曲がる「高橋さんがいる」
 様々な感情が脳内を駆け巡り、言葉が出ない。言いたい事がたくさんあるはずなのに、そのどれもが言葉の形を成してくれない。やっと出た言葉も、最後まで言い終える事は叶わず、喜びとも悲しみともつかない感情がハナの言葉を遮った。
「高橋さん、何で死んじゃったんですか? 私、わたし――」
 そしてハナは声を立てず泣いた。

 こんな時、男ってのはどうすればいいのだろうか。
 薄暗く寂寥としたアパートの一室で、同僚だった女性の初めて見せた表情にタカハシは戸惑い、同時に胸に込み上げるものを感じた。
 堪えきれず肩を抱こうとした手がハナの体を虚しく素通りする。
 タカハシは改めて、自分が死んでしまった事実を感じた。
「わたし、わたしね、たかはしさんをたすけます」しゃくりあげながら、ハナはぽつぽつと言葉を紡ぐ「わたしが、たかはしさんを、助けますから」
『助ける?』
「たかはしさんを、いきかえらせます」
『生き返らせる?』
「うん」鼻をすすり、唸るような声で頷くハナ。
 タカハシは頭をひねり、その言葉の意味を理解し、一瞬喜びの感情が芽生えた。が、その芽は一瞬で枯れ果て、ハナに対する不安感だけが残った。ハナはどちらかというと、たまに突拍子も無い事を言ういわゆる天然タイプだが、だからといって死んだ人間を生き返らせるなどと言い出すほど、末期症状ではなかったはずだ。何か良からぬ宗教に入れ知恵されたのかもしれない。
「信じてないですね?」
『当然だろ。何て名前の神様がそんな事おっしゃったんだ? いくら寄付した?』
「神様の力じゃありません」ハナは肩に下げていた鞄から古ぼけた木の棒を取り出す「見ててください」
 ハナは片手に持った木の棒を顔の前にかざし、小さな声で何かを呟いた。
 その瞬間素早いものがタカハシの顔のそばを横切った。
 振り返り、ものの向かった先を確認する。
 女性ものの靴が落ちている。
 玄関に置いてあるはずのハナの靴だ。いつの間に投げたのだろう。
「びっくりしました?」
 頭の上から声がする。頭の上? ハナは自分より背が低いはずだが?
 タカハシがハナの立っていた方に向き直る。
 そこには誰もいない。
「こっちですよ」
 天井を見上げる。
 そこにハナは居た。
 タカハシ君の頭上、天井の少し下辺りを水中でけのびするような姿勢で、ハナが浮いていた。
『え、あ、あれ?』
 テンパるタカハシを見下ろし、ハナは涙目で笑った。
「実は私、魔女なんです」

         ★

「高橋君、どうしてこんなミスをするの? どう考えたらこんな間違えしちゃうわけ?」
「すみません……」
「だーかーらー、すみませんじゃないでしょ、なんでこんな事したのか聞いてるの」
「えっと、それは、先方が電話口で言った言葉を聞き間違えまして」
「また言い訳? 全然反省が感じられないよ。バカは死ななきゃ治らないってか」
「言い訳してるつもりは……」
「へー、口答えするんだ。偉くなったね君も」
「……すみません」
 課長からの説教はゴールが見えない長距離走に似ている。どこかに結論付くわけでもなく、ひたすら続く苦しみの時間。どこに行き着くのかなど関係ない。長時間苦痛を受けた末、ゴールに辿り着く事無く倒れ込む。
 自分のデスクに戻ったタカハシは、課長にバレないように溜息を吐いた。
 気づけば説教だけで一時間が経過し、定時の帰宅時間はとうの昔に過ぎていた。これから今日が締め切りの仕事を終らせたら、一体何時になる事やら。
「高橋さん」ハナがタカハシの背中をトントン叩く「ちょっとコンビニ付き合って下さい。コーヒーおごりますから」
 会社の隣のコンビニエンスストアでコーヒーを買うと、ハナは会社近くの公園に足を進めた。暗い公園には誰も居ない。二人はベンチに腰掛ける。
「課長の説教、相変わらず意味不明ですね」
「そうかなぁ……」
「きっとストレスを発散したいだけなんですよ」
「でも、俺がダメ社員なのは事実だし……」
 コーヒーを開けた。湯気と供に香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。最近の缶コーヒーは美味くなったよな。きっと優秀な研究者が一生懸命開発したんだろうな。それに比べて自分ときたら……。
「なんかもう、俺みたいなダメダメ人間死んだほうがいいんだ」
「何言ってるんですか」
「俺みたいなダメ社員、会社のお荷物だし、必要としてくれる人なんていないんだ」
「それは違いますよ」
「三浦さんは、どうする?」
「え?」
「俺がもし死んだら、どうする?」何を言っているのかわからない。手の中のコーヒーの温かさすら、ぼんやりと現実感が無い。
「俺が――」
「ばかっ!」ハナは大声をあげた。遠くを歩いていたカップルが一瞬足を止めこちらを見る。
「高橋さんが死んだら、私は高橋さんを許しませんから」ハナは鼻息を荒げる「絶対に許さないですよ」
「許さないって……」
「私、高橋さんを生き返らせますから! 生き返った高橋さんをボコボコにぶっ叩いてやりますから! だから死んでも無駄なんです!」
「生き返らせるって、そんな無茶な」
「無茶じゃありません、頑張れば出来ます! だから……、だから、死ぬとか言わないで下さい」
 タカハシはコーヒーをもう一口飲んだ。身体が心の底から温まるような気がした。
「ごめん」
「許さないです」
「ひどいなぁ、課長よりよっぽど厳しくね?」
 コーヒー缶を太ももの間に挟み、タカハシはコーヒー色に染まった空を見上げた。グラニュー糖をまぶしたように星がちりばめられている。
数万光年離れた星の光から、数百メートル離れた電波塔の光へと視線を移した。あの程度の高さですら、自分にとっては未知の領域だ。
自分がいかにちっぽけな人間か、思い知らされたような気がした。
 数メートルの高さの街灯に照らされたハナが笑う。
星よりももっと明るい笑みだった。

          ☆

「私、魔女だったんです」ハナは腰を抜すタカハシの前で仁王立ちしている「……ていうか、自分も幽霊のクセに、高橋さん驚きすぎですよ」
 まぁ確かに、とタカハシは思う。
『ちなみに、幽霊である俺が見えるのも?』
「はい、私は魔女ですから、普通の人よりも霊的なものへの感受性が強いんです」
『へ、へぇ』
「混乱しているようですから、説明しますね」そう言ってハナは説明を始める「私の家はヨーロッパの魔女の家系にあたるマジョリーナ家の遠い親戚にあたるんです。日本にも私の家のように西洋系魔術者の血を引く家系も結構居るんですよ。イタコとか、そういう東洋系の魔術者の方がやっぱり多いですけどね。それで私は、マジョリーナ家の子孫の中でもけっこう魔力が強い方らしく、さっき見せた程度の魔術なら魔方陣無しでも使うことが可能です」
『要するに、魔女の家系でけっこう優秀な子なのね』
「はい。でも魔術って言っても、多分皆さんが思っているほど万能じゃありません。もしこの魔術で何でも出来るなら、私は多分今頃億万長者です」
『たしかにね』
「マジョリーナ系魔術は基本的に他者への干渉を良しとしません。ですから、私の使える魔術は全て、自分もしくは物質のみにしか作用しません。更に、自分の能力を他者に大きく干渉するレベルまで上げる術もご法度です。魔法で天才になって東大に入る、なんてのも出来ません。私が魔法で東大に入ったら、その分実力で入れる人一人の人生に大きく干渉してしまいます。出来て、学校の内申点に反映されない程度のミニテストで満点取るくらいが関の山です」
『ずいぶん使い勝手が悪いね』
「ルールに反する使用をした場合、すごく恐ろしいしっぺ返しがあるっておばあちゃんが言ってました」
『でもそうなるとさ』タカハシは指を立ててみせる『俺を生き返らせる、なんてのも無理なんじゃないの? 俺の人生に大きく干渉してるわけだし』
「それは――」ハナは目を見開き、赤くなって俯いた。
『え、何その反応』
「えっと、私の魔法における、他者と、自分の境界線というのは、物理的なものではなく、あくまで精神的なものでして、つまり、その、私と見ず知らずの他者には、何の精神的つながりも無いから、魔法上では非自己と判断されるわけです。つまり、精神的に受け入れられない人物に関しては、非自己となるわけでして、でもその逆に、えっと――」
『え? 何が言いたいの?』
「ようするに、高橋さんなら大丈夫なんです!」
 何かが爆破したように、ハナは真っ赤になりながら声を荒げる。
『わかったわかった、わかったからあんまり大きい声だすなって。ここは一応空き部屋なんだから、女性の大声が聞こえたら不審がられるだろ』
「そ、そですね、すみません」ハナはばつが悪そうに鼻の頭を掻いた「気をつけます」
 タカハシは壁に頭を突っ込んだ。幽霊の自分は物理的障壁を通り抜ける事ができる。片側の部屋は真っ暗で留守のようだ。もう片方の部屋の住人はヘッドホンをしてパソコンでアニメを見ている。この部屋の物音に気付いた気配が無い事にタカハシはほっと胸を撫で下ろした。
 床に腰を下ろしたハナは鞄の中をまさぐっている。部屋の中が暗い為物を探すのは一苦労だが、かといって照明器具をつけるわけにもいかないのはハナも理解しているようだ。
スカートから伸びた白い足が、フローリングの床に投げ出されている。この時期の床は冷たいだろうが、差し出せる座布団などあるはずも無い。自分の部屋で初めて女の子と二人きりだというのに、何のもてなしも出来ない自分が歯がゆい。
ハナは正方形に折りたたまれた紙を取り出し、床に敷いた。紙は広げると二畳分ほどの大きさになった。中央に円形が書かれ、よくわからない呪文が記されている。多分魔方陣というものだろう。
「肉体のよりしろとなるもの――」近所のスーパーのパック豚細切れ肉が置かれる。
「血のよりしろとなるもの――」ビンの赤ワインが置かれる。
「魂定着の目印――」白地に赤い字が書かれた紙を置く。
『ずいぶんと安っぽいもので作るんだね、俺の体』
「これは肉体を構成する上で、ただの設計図みたいなものです。このよりしろを元手に、魔力で肉体を製造・構築していくんです」
 言っている意味がよくわからないが、だからこそ目の前で魔女を名乗る元同僚に少しの期待を感じている自分も居る。魔術なんてものは常人から見れば得てして意味不明なものであり、そうであるからこそ未知の力を期待することが出来る。
「魂の定着の為には、生前その者が一番魂を寄せていた場所が一番なんです」黙って自分を見つめているタカハシに照れたのか、ハナは聞かれてないのに説明を続ける「高橋さんの魂が最も無防備に曝されていた場所、それ即ち高橋さんの部屋!」心地よいほどのドヤ顔である。
『なるほど、だからこの部屋に来たわけか』
「空き部屋の鍵なら魔法で簡単に開けられますから」指先をくるくるっと回してみせる「それと、今日がハロウィンだというのも関係しています。お盆やハロウィンといった死者と生者の距離が近くなる日は、当然死者蘇生にもうってつけなんですよ。高橋さんが今日この時この場所に現れたのもうれしい誤算です。おそらく高橋さんは東洋――日本の霊的儀式より、西洋のそれに親和性が高いんじゃないでしょうか。お盆ではなく今日、ハロウィンに地上にやってきたのも、多分そういうことなんですよ。これは成功しますよ、絶対成功します、成功しますとも!」
 言葉の最後の方はむしろ懇願に近いような響きがあった。
 彼女は必死に自分を生き返らせようとしてくれている。
 その気持ちだけで、タカハシはうれしかった。

          ★

 タカハシの事故を知らされた時、ハナは全く実感がわかなかった。
 病院に運ばれたタカハシが臨終した知らせを聞いた時も、ハナは録画したテレビドラマを見ているような、そんな傍観者的な感情しか沸いてこなかった。
 会社の同僚として後ろの席に座り、お坊さんの唱える下手くそな日本魔術の詠唱を聞きながら、ハナは週末の映画に着ていく服装の事を考えていた。
週末は、高橋さんが初めて自分を映画に誘ってくれた。どんな服装で行けば、彼は喜んでくれるだろうか。こんな私を、かわいいと感じてくれるだろうか。
 週末、ハナは待ち合わせの駅前でタカハシが来るのを待った。
 約束の時間は十時。約束の時間になれば、きっと彼は駆け足でやってくる。
 友達とラーメン屋にでも行くようなしゃれっ気の欠片もない服装の彼に「もっとかっこいい格好で来てください」と頬を膨らませてやろう「今日は私と、デートするんですよ」
 そんな事自分が言えるわけが無いのに、とハナはクスリと笑う。自分にそんな勇気、無い。自分の気持ちだって、ずっと言えなかったのだから。
 十時が過ぎた。
 十一時が過ぎた。
 十五時が過ぎた。
日が傾き、夕暮れが迫る。
彼は来ない。
そのとき初めて、ハナはタカハシが死んでしまった事を理解した。
彼は来る事は二度と無いのだ。
地面に座り込み、ハナは声を荒げて泣いた。
道行く人の目が奇異の目でハナを一瞥し通り過ぎていく。なぜ彼らは、わき目もふらず日常に溶け込んでいく事が出来るのだろうか。彼が死んでしまったというのに。彼にはもう二度と会えないというのに。
世界の大半が欠落してしまった。
そう感じているのは、私だけなのだろうか。
言いようの無い孤独が心を鷲掴みにし、搾り出された冷たい液体が、涙となって流れ続ける。
やがて涙も枯れ果てた頃、ハナは以前自分が彼に言った言葉を思い出した。
〈私、高橋さんを――〉
 ゆっくりと立ち上がり、袖口で涙を無造作に拭う。
〈私、高橋さんを生き返らせますから〉
 そうだ、私は高橋さんと、そう約束したのだ。
 自分には、もう一度彼に会える力がある。

 それから約一年、ハナは死に物狂いで魔術の研究を続けた。
 他者への干渉を前提とした魔術の記録は、先祖達の記した過去の文献をかき集めても、清流に眠る砂金程の僅かな事例し見つからない。一文の得にもならない川原の石を天高く積み上げるような地道な作業を、ハナはひたすらに続けた。
 睡眠不足で眼が落ち窪み、机に突っ伏して気絶するように眠る。数時間の後目を覚まし、手櫛で整えただけの押入れの中に忘れ去られた人形のような容貌で会社へと向かう。そんな日が何日も、何ヶ月も続いた。
また二人会社のそばの公園でコーヒーを飲むような、そんな日常に戻りたい。
 死んだ人間を自分の都合で行きかえらせる事など、おそらく神への冒涜だ。
 彼自身がそれを望んでいないかもしれない。
 でも、自分は彼と一緒に生きたい。
 彼の居ない人生に、何の喜びがあるのだろうか

          ☆

「高橋さん」準備の手を休め、ハナはタカハシを見た。
『なに?』
「私、高橋さんの事が好きです」
『え!? あ、その、ええ!?』
 突然の告白に、タカハシは混乱する。
『なんで、俺なんかを?』それは素直な感想だった。会社での自分を客観的に見ても、ハナが恋心を抱くような要素があるとは思えない。
「同期の女の子達の中で、私一人浮いていたんです。私見た目地味だし暗いから、多分気にくわなかったんだと思う。ちょっとだけ、イジメみたいな事もされました。私に仕事を押し付けて先に帰ったりとか――そんな時、高橋さんだけはいつも無言で、私の仕事を手伝ってくれましたよね」
『そ、そうだっけ?』
「これ、覚えてます?」カバンの中からカボチャ頭の人形を取り出す「ちょうど一年前のハロウィンの時、会社の飲み会の帰りに寄ったゲームセンターで、高橋さんが取ってくれた人形です。今でも大事に持ち歩いてるんですよ」
『ああ、たしか五千円くらい使ってやっと取れた――』ははは、とタカハシは笑う。
「そうです、あの時の高橋さん、ひーひー言ってましたね」ハナもクスリと笑った。
「私、ずっと高橋さんの事が好きでした。これからもずっと高橋さんの事が好きです。だから、高橋さんに生き返って欲しいんです」
 ハナの言葉は、静かな部屋に凛と響いた。
 その瞳はまっすぐにタカハシを見ている。
「でも、それは私の勝手なエゴです。高橋さんがこの世に未練も何も無いって、そう思うのなら――そんな高橋さんを生き返らせるのは、多分間違っている」
『俺が死ぬ直前に思った事、何だと思う?』
「何、ですか?」タカハシの唐突な質問に、ハナは首をかしげる。
『やっと好きな子をデートに誘えたのに、こんな所で死にたくない』
 タカハシは照れ臭くなって窓の外を見た。
家々の明かりが、暗い海に立つ灯台のようにポツリポツリと点在している。風に吹かれ舞う木の葉が波音を奏でる。少しだけ欠けた月をタカハシは見上げた。
『生き返ったら、また映画に誘ってもいい?』
「はい」ハナは大きく頷く。
 
 魔方陣の前に立つ足が震えた。
 他者に干渉する魔術の代償について、ある文献にこう書かれていた。
【他者を対象とする魔術を使いし時、その魂は冥府へと向かう】
 失敗は術者自身の魂を永久に消滅させる。完全なる死だ。それが恐くないといったら嘘になるが、タカハシの言葉がハナに勇気を与えていた。
 自分は彼の心を――魂を受け入れている。
 今、二つの魂は一つになっている。
 そう思うと恐怖は薄れ、足の震えは止まった。
 魔方陣の上に手をかざす。呪文の詠唱はまるで歌のように淀みなく、透き通る声が緊迫した空気を震わせた。
 魔方陣が徐々に光を湛え始める。
 ハナの額に汗が浮かぶ。
 かざした手に力を込める。
 魔方陣が一瞬、まぶしいほどの光を放つ。
 
ハナは目を瞑った。

真っ暗な部屋に横たわる影が、微かな衣擦れの音と供に動いた。
「う、ん……」
 その影はハナだった。魔方陣から放たれた強烈な光は、瞬時にハナの意識を奪った。ハナは混濁した意識で朦朧としながら、自分の右手を左手で触った。次いで胸に手を当てる。心臓は規則正しく脈打っている。
 生きている。
月が雲に隠れたのか、アパートの窓から迷い込んでいた月明かりも、今は無い。かなり長い間気を失っていたようにも感じたが、腕時計を見るとほんの数分しか経っていないようだった。
 自分が生きているという事は、術の成功を意味し、同時にタカハシの蘇生を意味する。霧がかった意識が次第にその輪郭を表すに連れ、その結果は実感となってハナの体に流れ込んでくる。
 過去誰も成しえなかった死者の蘇生を自分はやってのけたのだ。
ハナは安堵の溜め息を漏らした。
「高橋さん……」
 手探りで魔方陣のあった方向に手を伸ばす。その場所で自分と同じように気を失っているはずのタカハシに触れるために。
 ぐにゃ。
 冷たく不気味な感覚が手の平から伝わる。
「え?」
 その感覚を握り締め、手元に手繰り寄せる。
 開いた手の中には豚肉が握り締められていた。
「なに、これ?」
 ハナは気が動転した。
 本来タカハシが横たわっているべき場所に彼の姿は無かった。
 よりしろとして置かれたはずの肉とワインが、そのままの形で魔方陣の上に並んでいる。
「高橋、さん?」
 返事は無い。
「高橋さん、どこですか?」
 返ってくるのは静寂のみ。
 自分以外に生きる者の気配は無い。
 ハナはたった一人、冷たいアパートの床に部屋に座っていた。
理解し難い状況を前にハナの脳は必死にその答えを探った。乱暴に引き出しを開け放ち、中身を無造作にばら撒きながら、想像したくない一つの可能性を否定しえる材料をハナは探した。
見つからない。
現状を否定してくれるような仮説も、事例も、ハナの持つ引き出しには存在しない。
【術の失敗でタカハシは魂ごと消滅した】
 途方も無い絶望感に襲われ、ハナは床に崩れ落ちた。
 自分の術が彼の魂までも消滅させてしまった。
 魂さえも消滅した者は、もう二度と生き返る事は無い。
 絶望の底からふつふつと、自分自身に対する言いようの無い怒りが込み上げてくる。怒りに焼かれ心が悲鳴を上げている。
「私が、殺したんだ」両手で髪の毛を掻き毟る「私が、高橋さんを、殺した」

『三浦さん』

 声が聞こえた。
 ハナは手を止め、耳を澄ます。
『俺はここだよ。大丈夫だって』
 確かに聞こえる。
『ここだよ、君の鞄の隣の――』
 ハナは上体を起こし、床に置かれた鞄の方に目をやった。鞄の隣に何やら蠢くものがいる。片手に乗る程度の小さな物体、そのシルエットには見覚えがあった。
 その物体に手を伸ばす。
 カボチャ頭の小さな人形。
『こんな姿になっちゃいました』
 人形はハナの手の中で、きまずそうにポリポリと頭を掻いた。
「高橋さん……なんですか?」
『そうだよ』
「何で、そんな姿に?」
『さあ?』
 ハナは目を凝らして人形を見つめる。人形の背中に赤い字が書かれた紙が張り付いている。ハナの頭の中で様々な事象が一本の線に繋がった。見つめられ照れている人形――タカハシを床に置くと、ハナはしきりに頷いた。
「そっか、そういう事か」
 全身の力が抜け、ハナはタカハシを抱いたまま床に寝転がる。
 冷たいフローリングの感覚が火照った頭と体を心地よく冷ましてくれる。
『どういうこと』
 タカハシの問いに、ハナは恥ずかしそうに笑った。
「私の魔術は半分失敗して、でも半分は成功したみたいです。高橋さんの魂だけは現世に定着させることが出来ました」
天井を見つめながら、長い溜め息のようにハナは言う。
「高橋さんの魂のみに限っては、私が自分の一部として受け入れる事が出来たので、魔術の効果範疇に含まれ、生き返らせる事が出来たんです。」
『うん』
「でも、高橋さんの肉体については、自分の一部として受け入れる事が出来なかったというか、その、受け入れる覚悟が無かったというか、そんな感じで……」少し言いよどんだ後「だから非自己と判断され、生き返らせる事が出来なかったのだと……」
『え? どゆこと?』
「そ、それはですねっ!」
ハナは急に声を荒げ、飛び跳ねるように上体を起こす。顔は暗闇でも分かる程に真っ赤で、視線は部屋の中そこら中を転がりまわっている。
「べ、別に高橋さんと、そういう事をするのが嫌だとかそんなんじゃなくて、ただまだ覚悟が出来てないって言うか、恐いって言うか、だって初めてだからよくわからないしその」
『えっと』タカハシもハナの言っている意味をなんとなく理解し、カボチャ頭が唐辛子のように赤くなっていくのを感じた『肉体を受け入れるって、えっと、そういう事なの?』
 俯いたまま、ハナはコクリと頷いた。
 タカハシはハナの膝の上から、コロンと床に転がり落ちた。空っぽの頭が渇いたイイ音を響かせた。
 雲に隠れた月が顔を出す。
 急に窓から入り込んだ優しい光に、タカハシとハナはしばしの間見とれていた。
「タカハシさん」
カボチャ頭のタカハシをゆっくりと抱き上げ、ハナは子守唄のような優しい声で大切な人の名を呼ぶ。全てが元通りという訳にはいかないが、手の中に収まる程に小さく、しかし自分にとって太陽のような輝きをもったこの魂だけは、もう二度と失わない。

          ☆

ハロウィンはケルト人にとって、死者の霊が現世に現れる特別な日であるらしい。
魔女やお化けの仮装をした子供達が町を練り歩き、町は喚起と笑い声に包まれる。
とある島国のとある町、恐い夢で目が覚めたハロウィンを知らない子供が、月明かりに誘われてカーテンの向こうを覗き見る。少しだけ欠けた月の前を魔女とカボチャ頭の小さなお化けが横切り、少年は目を丸くした。
『会社の近くの公園で、俺が三浦さんに弱音を吐いた日の事、覚えてる?』
電波塔の上で、カボチャ頭のお化けが言う。
「覚えてますよ。二人でコーヒー飲みましたよね」
 カボチャ頭のお化けを抱いた、スーツを着た魔女が言う。
『あの日、この電波塔を見上げ見ながら自分の小ささを感じたんだ。世界は広い。自分の見渡せる視野の中じゃ、見れない事はたくさんある』
 照れくさそうにカボチャ頭は言う。
 自分の死も、自分の蘇りも、同僚が魔女である事も、その魔女が今まで自分を支えてくれていたという事実も――あの頃のままじゃ、見れなかった事はたくさんある。
「実際に、ここに立ってみてどうですか?」
『少しだけ自分が大きくなった気分。今なら星にだって手が届きそうだ』
 グラニュー糖をまぶしたような星を見上げる。
 何も無く、身体さえ無くした自分だが、今は魔女の手の温かさを感じていられる。
「来年の今日もまた来たいですね」魔女はカボチャ頭の顔を覗き込む「その時は高橋さんが、私を抱きかかえて下さい」 
 不意に、カボチャ頭の額に、魔女の唇が触れた。
『な!?』
「高橋さんの身体に慣れるための、第一歩です」
魔女は笑った。
あの時と同じ、星よりももっと明るい笑みだ。
「これからも、よろしくお願いします」

(2015年4月 一部訂正)
プロフィール

幕田卓馬

Author:幕田卓馬
糖、脂質、プリン体、塩分などに気を配らないといけない歳になりました…若い頃の不摂生が原因でしょうか。まだ三十路、されど三十路!
そんな男が日々の合間に小説を書いています。

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