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どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~42

第42話「それぞれの、その日まで その4」

○平均の、その日まで

落ち着かない夜は、ギター磨きに没頭する。

オイルを垂らした布でボディを丹念に磨くと、高校生のバイト代で手が届く程度の安物ギターですら、ショーケースに飾られたヴィンテージのように艶かな輝きを放ちはじめる。霞がかった様にぼやけた輪郭が、濃い鉛筆で何度もなぞられたみたいに、力強い存在感を帯びてくる。
相棒が見せるその表情が、いつも僕の気持ちを落ち着かせてくれるのだ。

心の中にある、濃くて淡くて柔らかく固いものが、次第にその姿を現し始める。それは至ってシンプルな問い掛けだ。失敗、迷惑、嘲笑、落胆?‥‥違う、そうじゃない。僕が、僕自身に問い掛けたい言葉は、そんな他人の眼の中に映り込んだ自分へ向けられるものじゃない。
その時の僕が、その瞬間を楽しめるのか?
そして未来の僕が、その瞬間を楽しかったと思い返す事が出来るのか?

秋の夜は長い。
実測値ではなく感覚として、秋の夜は脳の何処かにある赤茶けた錆だらけのリュウズを回してしまうのだろう。時計の針は迷子の仔犬みたいに、無闇矢鱈に進んでは、同じような速度で来た道を引き返す。そんなデタラメ時間の中で引き伸ばされ推し窄められた僕の感覚は、ペグを緩めた0.012インチのスチール弦みたいに、間の抜けた欠伸を誘発した。
一つの巨大な音の集合体があるとする。いくつもの飛沫が組み合わさり、轟音と共に滝壺へと流れ落ちる澄み渡った清流。ひとつひとつの音に耳を澄ませれば、粒の大きさや落下する高さはまちまちで一つとして同じ音がない。窓の外から聴こえてくるウマオイの奇妙でひょうきんな声に耳を傾けて、僕はそんな事を考える。
僕らの音楽もそうでありたい。複数の音が絡み合い一体となり、音楽として空間を彩る。
しかし切り離されたひとつの音にだって、何かしらのストーリーを感じさせたい。

「夜中になんでギターいじってんの? なんか怖いんですけど‥‥」
隣室の引き戸の隙間から、怪訝な顔をした妹ののどかが覗き込んでいた。明日の学祭を見物するために今日は僕の家に泊まっている。受験生としてのモチベーションを維持するために、最近は様々な大学の学祭を見物しているらしい。
「あ、わるい、起こしたか?」
「いや、布団の中で参考書読んでたから」そう言いながらも溢れそうになる欠伸を右手で抑える。多分、ほぼほぼ睡眠学習の領域に突入していたに違いない。
「ほどほどにな」僕はそう言ってギターに向き直った。背中からなんだか物足りなそうな妹の視線を感じる。

「お兄、なんか変わったよね」そんな呟きを背中に受けた。
「どこが?」僕はのどかの方を見る。引戸の隙間から覗くのどかの白い顔は、夜の窓ガラスに写った自分の顔にどことなく似ている。いつもみたいに背伸びの化粧をしていないせいか、その顔はなんだか幼く見えた。僕の後ろをついて回って、僕の真似ばかりしていた幼い妹の顔だった。
「なんだか、しっかりしたって言うか‥」のどかが呟く
「なんだよ気持ち悪い」
「いや違うし! 調子にのんなよ! えっと、うーんと」のどかは腕を組んで考え込む。
僕は布にオイルを染み込ませながら次の言葉を待った。
無言になる。
時計の音、外では秋の虫の音。ふと、明日歌う予定のオリジナル曲のワンフレーズが思い浮かんだ。
「なんていうか、いつも楽しそう、っていうか」
「楽しいよ」僕は臆面も無くそう返した。そう、楽しい。弾き語り部門のみんなと過ごす時間も、一人で自分の思考に沈んでいく時間も、講義を聴きながら曲の歌詞を考えている時間も、その曲をみんなの前で披露する瞬間も、どれもかけがえのない時間だ。

「うちもさ、大学生になったら、そんなふうになれるんかな?」のどかは言う。何か思うところがあるのかもしれないが、今ここでは聞かないでおく。必要になれば、こいつから相談してくれるはずだ。
だから僕は、こう答える。
「明日のライブを見れば分かるよ」

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どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~41

第41話「それぞれの、その日まで その3」

○先輩達の、その日まで

居酒屋という文化は極めて日本的だ。
建前の裏に隠された本音を吐き出すのには、酒の匂いと喧騒で混沌としたこの空間は至って好都合だ。言葉の端にこびりついた目も当てられない負の感情ですら、換気扇に吸い込まれていく煙草の煙のように抜き取られ、あとには笑いと歓声の記憶だけが残る。そしてまた、何事も無かったかのようにいつもの日々。その繰り返しが膨らんだストレスの圧調整を担っている。
彼らにだって悩みはあるし、不安もある。モラトリアムはそこから抜け出すことに莫大な労力が必要となるが故に、先の見えない重圧が心の重石となる。
しかしそれでも彼らは進むしかない。
可能な限り逃げず、腐らず、笑って。

「学祭終わったらさー」4杯目のビールジョッキを傾けながら「いろいと、面倒臭いことが山積みなんだよなー」杉田三郎は溜息のように吐き出した。自身の感じている不安や寂しさを、面倒臭いという怠惰のオブラートに包んで放り投げる。
「卒業研究に、就職活動か‥‥学生の本分であるが故に、今まで通りの生活を、という訳にはいかないな」五智哲夫は日本酒の入ったお猪口を傾けながら頷く。
「ごっちんは就職するんだ」なぜこの場に自分が呼ばれたのか、という心の濁りも酒の力によって真水くらいに薄まっている。そんな国府涼子はカシスグレーフルーツをジュースのように喉を鳴らして飲み干した「杉田くんと2人で、ミュージシャンデビューすればいいんじゃない? ごっちんのお兄さんもプロなんでしょ?」
「ああいう世界は運みたいなものだ。俺の兄貴もほんの少し運が向かなければ今頃別の仕事をしていただろう。努力云々ではどうしようもない」ほんの少し、夢を見るような眼差しを虚空に泳がせ、しかし迷いを断ち切るかのように断言する。
「俺は、院に行くわ」杉田は興味なさそうに呟く「だからごっちんと音楽業界に殴り込みに行ってる暇なんかねーの」
「同感だ」
「けっ、そうはっきり肯定されるとなんか釈然としねーや」そう言って嘲るように杉田は笑った。
その笑いを最後に、各々に所在のない沈黙が訪れる。
それぞれ事情や進むべき道は異なる。しかし何か共通するものがあるからこそ、彼らは今ここで酒を飲み交わしている。それが何であって、どうしたら寂しさや不安を抜き出した上で、それを言葉として形作る事が出来るのか。
そんな事を考えていた。
「そういや、平ちゃんの曲‥‥」杉田が呟く。ジョッキは既に空だ「ダサい曲だったけど、まぁなんつーの? わかる、って感じはしたよな」
今日の昼間に後輩2人がお披露目したオリジナル曲を3人は思い出していた。
「今の俺達の怠惰で甘ったれた日々なんて、ほんと『ばからしい歌』なんだよな」フライドポテトを咥える。
「だが『すばらしい歌』だろ?」そんな五智の返しに、杉田は面食らうも、すぐに頷く。
「そういうこと」

「学祭、頑張らなきゃねー」店を出ると、夜風が涼しさを運んでくる「私も、美味しいたこ焼き作るから、食べにきてよ」
「ああ、わかった」五智が頷く。
「ピンポン玉入れられそうだから、俺はいかねー」杉田はいつものようにふざける。
「杉田くんには、質の高いピンポン玉入れとくよ。スリースターのやつ」
「なんだよそれ、知らねーよ、マニアックだな」ケケケと笑う。
全てが一度しかない瞬間の繰り返しだから、何一つとして無駄にしてはいけない。そんな気持ちを言葉の一つ一つに込めながら、彼らはたわいない会話を楽しんだ。側から見たら頭が空っぽな若者達の会話。しかし彼らは彼らなりに、必死になって日々を刻み付けようとしている。
「あ、ラインが来てる」スマートフォンを取り出した国府の目が、薄明かりを放つ液晶画面を滑る。そしておもむろにその画面を二人に向けた「加奈、学祭来れるってさ!」
二人は何も言わなかった。
しかし、言葉に出来ずとも込み上げてくるものがある事を、国府は知っている。

「いっちょ、やったるか」
駅横のコンビニの角を曲がったところで、杉田がそう呟いた。
多分その時、彼らの気持ちは一つだった。


どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~40

第40話「それぞれの、その日まで その2」

○金谷ひまりの、その日まで

高校から帰ると、リビングでおじいちゃんがギターを弾いていた。
使い込まれたYAMAHAのFGは、張りつめた弦の緊張した歌声を、柔らかく優しい音に変えて響かせる。

おばあちゃんが亡くなってから、おじいちゃんはこうしてリビングでギターを弾くことが多くなった。
「おじいちゃんが弦で、おばあちゃんはギターだった」おばあちゃんがいなくなった事実を受け止めきれなかった幼い私に、おじいちゃんはそう言った「堅物でいつも張りつめていたおじいちゃんを、おばあちゃんは受け止め、響かせてくれた」
最初はよく分からなかったけど、高校生になった今では何となくわかる気がする。
おじいちゃんはギターを弾きながら、おばあちゃんとの再会を楽しんでいるんだ。

「ひまり、帰ったのか? なんだ、そんなとこに突っ立って」どうやら私は、鞄も下ろさずおじいちゃんの弾くギターに聴き入っていたみたいだ「ううん、何でもない」後ろめたさを感じる必要なんて何もないはずなのに、何となく感じた焦りに似た感情を、おじいちゃんの演奏に聴き耳を立てていたバツの悪さで覆い隠し、私は自室へ向かう階段を駆け足で登った。

今、こうしてギターと正面から向き合ってみておもう。
あの頃私は、ギターという楽器に憧れを感じていた。
ううん、ギターといよりも、おじいちゃんとおばあちゃんの関係に憧れ、それを体現しているギターという楽器に興味を持ち始めていた、って言うのが正しいかもしれない。
でも、ピアノだけに向き合ってきた私は、ギターという未知の楽器に触れるのが怖かった。壊してしまうのではないか、傷付けてしまうのではないか、そして逆に、傷付けられてしまうのではないか‥
その頃の私はピアノだけが唯一だった。
私にはピアノしかない、それ以外に何もないし、何もあってはいけない。ピアノの技術を求め、求められる日々の中で、そんな風に自分自身を縛り付けていた。

やがて、珠美ちゃんがピアノを弾かなくなり、ピアノを弾く楽しさがだんだんと分からなくなってきた自分に焦り始める。
私にはピアノしかないはずなのに、そのピアノが、楽しくない。
そんな私の心を、きっとおじいちゃんは知っていた。だからこそ私にこのギターを託してくれた。
ピアノの音が形作る世界だけが、私の世界じゃない。

そしてこのギターは、狭い部屋で膝を抱えていた私の前で、その錆び付いた窓を開け放ってくれた。

壁際のスタンドに立て掛けてある、使い込まれた、でもピカピカに磨き上げられたギターに目をやった。ナチュラルカラーのボディにはいつも通りの惚けた顔が映っている。変わらないようでいて、大きく変わった‥‥変わる事ができた、そんな私が映っている。
ありがとうという感情が自然に湧き上がってくる。
ギターに対して、そしてこのギターによって導き出された数々の出会いに対しての。

窓の外は、秋の風が色付いた木の葉を揺らしている。
がガラスを隔てたこの部屋の中まで軽快で複雑な音の波が流れ込んでくるような気がした。
音楽は耳だけではなく、目で、鼻で、肌で感じるものなのかもしれない。祭りの喧騒の中で、潮騒と混じる夏の海岸で、花火と星と夜風にの匂い中で、私の音楽は確かに記憶として形作られている。そしてこれからも、形作られていくんだろうな。

学祭が近付いている。
私にとって初めての大舞台、そして先輩達と奏でられる最後の大舞台。
気負いはあるし、不安もある。ピアノの発表会を前にしていた時とは違って、失敗のイメージは常につきまとう。
でも忘れちゃいけない。
大切な事は、ギターってーー音楽ってめちゃくちゃ楽しいって事、それだけなんだ。

そうだよね、おじいちゃん、おばあちゃん。
ギターを手に取り、今では慣れた手つきでGのコードを鳴らす。
2人の声が、私の背中を押してくれたような気がした。

どんびき!~曇天大学軽音楽部弾き語り部門~39

第39話「それぞれの、その日まで その1」

○正法寺陽介の、その日まで

この部屋に初めてきた日の記憶は鮮明だった。
自分のアパートと同じ立方体の空間なのに、その中に密閉された空気の違いが俺の感情を妙に昂ぶらせていた。
でも、最近はそんな落ち着かない感情も薄れ、今は目の前の黒い箱に並べられた白と黒の鍵盤だけに意識を集中させる事ができる。
「上手くなったね」清里さんが言う。
「ありがと」少し素っ気ないかな、そんな事を思いながらも鍵盤を叩く手は止めずに答える。
弾きながら歌う場面に備えて、なるべく無意識で指が動くようにしたいーーそんな目的から、話し掛けれられてもピアノの演奏を止めないようにしよう、なんてはたから見たらよくわからないノルマを自分に課している。
しかし、だんだんとわかってきた気がする。
この楽器が何を求め、どんな風に触れてもらいたいのか。
なんて事をこの道10年以上の清里さんに言ったら失笑を買いそうだから、言わない。自分の中だけの達成感として留めておこう。
清里さんはいつも通り椅子代わりのベッドに腰掛けて、ピアノを練習する俺の背中を眺めているのだろう。
「学祭、楽しみだね」清里さんが言う。
「だね」俺は返す。

○清里珠美の、その日まで

お祭り前の空気感っていうのは、あたしたちの感情を嫌が応にも盛り上げてくる。
何かに向かって一緒に何かを作り上げているっていう特別感みたいなものが、日常を少しだけ鮮やかなものに変えてくれるのだろうか。
中学の頃、放課後に学祭の備品を作っていた時、一緒に作業していた男子から突然告られた事があった。あの時は、何でこのタイミングでと思ったけれど、今ならその男子の気持ちもわからなくはない。
結局のところはこの空気感が悪い。
2人で一つの目標に向かうこの状況、2つの道が合わさるこの時間は、隣の誰かと手を繋いで歩いているような、そんな錯覚を起こさる。
「上手くなったね」私は言う。
「ありがと」正法寺君がピアノを弾きながら答える。
「学祭、楽しみだね」
「だね」
あたしの問いかけに対しての、短い返答。今、この人の目には、目の前のピアノと、平とのステージしか見えてないのかもしれない。少し寂しい気もするが、そんな不器用なところに、どこか頼もしさを感じる。
最高のライブになるって、そう確信できる。
だからあたしは、誰も聞いていない空間に向けて、ひっそりと自分の感情を言葉として漂わせた。学祭に向かって邁進すべきあたしたちにとって、それは不相応な言葉だと思う。
「学祭終わったら、あたしと付き合ってよ」
多分、正法寺君には聞こえていない。だから、答えなんて期待しちゃいない。
「学祭、終わったらな」
でも、どこからかそんな声が聞こえた。
見ると、正法寺君の指が止まっている。
音が消えた。
混乱して我武者羅に回転する自分の脳みそや、やけに早まる心臓の鼓動を、搔き消してくれるものは何もない。
「あのさ」あたしの方を見ずに、正法寺君は言う。その指は落ち着かないように鍵盤を弄んでいる「何でこのタイミングで言うかな」落ち着かない手が自分の頬を掻く「もう少し待っててくれたら、俺のほうから、もっといい感じのシチュエーションで言ったのにさ」
ちらりと私の方を振り返る。
その顔は、イケメンで整った正法寺君が初めて見せる、なんとも崩れたブサ可愛い顔だった。
祭りの前の空気感は、なんでこんなにもあたし達の感情を掻き乱すのか。
喜びと可笑しさで込み上げてくる笑いを堪える事に、あたしは必死になっていた。


雪道を泳ぐ銀色の魚

「セイヨウシミになりたい」と彼女は言った。

古本屋で買った文庫本をぶら下げながら、僕と彼女は日の落ちた薄明かりの雪道を歩く。
踏み出す度に軋みをあげる新雪は、僕らがこれから通りすぎるであろうあの街灯や、その先に広がる田園を抜け、はるか遠くの山並みまで白銀に染めている。
音は、背後の国道を走る車の走行音が時折聴こえるのみだ。
車が一台、また一台通り過ぎる度に、静寂が雪と共に舞い降りてくる。
その静寂の合間を縫うようにして、彼女のその言葉は鏑矢のようにはっきりと僕の鼓膜を射止めた。

「セイヨウシミって?」その質問に対して、足元を確認しながら僕の一歩前を歩いていた彼女は振り返る事なく「本の虫だよ」と答えた。
それは本が好きな人の比喩表現なのだろうか。
質問を繰り返そうと口を開きかけた僕の気配を察したのか、彼女は「古本を食べる銀色の虫のこと」と補足した。
どんな虫なのか、僕はセイヨウシミの事をよく知らない。
ただ彼女の言った『銀色の虫』という表現が、彼女の背景に降り積もる新雪と重なり、空から舞い落ちる雪の妖精のような幻想的な姿を惹起させた。
「この雪が溶ける頃、私達は離ればなれだから」彼女が立ち止まる。その小さな肩に積もった雪は、彼女の儚さを際立たせる「だから、私はこのまま、君の好きな本につく虫になって、ずっとずっと、君のそばにいたい」
春になれば、僕たちは別々の道を歩く事になる。それはオトナであっても大人ではない僕たちにとっては、あがらう事のできない激流であり、ただただその流れに身を任せていた。
舞い落ちる雪が彼女のコートを白く染める。
まるで銀色の鱗を纏うかのように。
「雪の神様、どうか、私を本を泳ぐ銀色の生き物に変えてください」
そう呟きながら僕の前を歩く彼女が、銀色に染まっていく。
それは雪道を泳ぐ銀色の魚のようだった。

そして、そんな彼女の足跡を、降り続ける雪が無慈悲にも消していく。



あの夜から突然、彼女からの連絡が途絶えた。

動揺はあった。しかし、心のどこかでは納得していたのかもしれない。
あの日の夜、銀色の鱗を纏っていく彼女が、1匹の銀色の生き物へと生まれ変わっていく。
そんな光景が、妙なリアリティを持って僕の心に住み着き、僕を幻想と妄想へと誘っていく。

遅かれ早かれ来る事を覚悟していた彼女のいない日常に、僕は次第に慣れつつある。
地元に引っ越した僕は小さな会社の事務員として働きはじめ、楽ではないが充実した生活を送っている。
ふと、寂しさが心を過ぎる事がある。しかし本に囲まれた部屋の真ん中で寝そべっていると、そんな寂しさも少しは和らいだ。

もしかしたら、彼女は今、セイヨウシミとなってこの古本の中を泳いでいるのかもしれない。
そう思うと僕の心は不思議と落ち着くのだ。



「うわっ、なにこのキモい虫!」私のアパートでマンガを物色している親友のマキが大声で叫んだ。
「あ、それセイヨウシミっていうの。古本の糊なんかを食べる虫」
「うへぇ」
「魚みたいに銀色の鱗があるから、英語でシルバーフィッシュって言うんだって」
「銀色の魚ねぇ‥全然そんな風には見えないんだけど。てか、フミカ何でそんなに詳しいのよ」
「元カレからフェードアウトする時に、ちよっとね」
「元カレって‥ああ、新潟に住んでた頃付き合ってたって言う文学青年!」
「そ。言ってなかったっけ? 穏便に別れるにはどうしようかって色々考えて、一芝居うったのよ」
「何それ、詳しく聞かせてよ」
「しょうがないなぁ‥」
マキはいつも私の話を驚いた顔で聞いてくれる。だから私は少し自慢げな顔をしながら、元カレと別れたエピソードを話した。
「へー、なんか幻想的なシチュエーションが功を奏したって感じだね。しかし男ってそういう幻想的なファンタジーに弱いよね」
「彼は夢見がちな文学青年だったしね」
「でも、そんな純粋な人、今時珍しいよ。別れるの惜しかったんじゃない?」
「だって、遠距離恋愛とかマジ無理でしょ。彼も地元で就職決まってたし、私もこっちで就職決まってたから、それを蹴ってどうこうとか考えらんないし」
「たしかに」
頷くマキに「でしょ、でしょ?」と私も頷く。

そんな事を話している間に、セイヨウシミはどこ変え消えていた。
きっと、どっかの古本の中を泳いでいることだろう。


プロフィール

幕田卓馬

Author:幕田卓馬
糖、脂質、プリン体、塩分などに気を配らないといけない歳になりました…若い頃の不摂生が原因でしょうか。まだ三十路、されど三十路!
そんな男が日々の合間に小説を書いています。

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